10話 桜紅葉に約す夜

「後のことなんて、なんにも考えてなかったんだよ」

 緋華は苦く笑いながら、言葉を落とす。

 幼かった。子供だった。そういうことなのかもしれない。大人たちの世界に入ることが、難しいことだとは分かっていた。それでも選んだのだ、自分で。


「そのまま、ここまで来てしまった。みんなが幸せに笑っているのを見ると、わたしも嬉しいから、これでいいんだ。だから後悔はしていないけれど……」

 でも時々辛くなる。神宮の血が重くなる。気を張るのに疲れてしまう。本当にこれでよかったのか、恐くなる。

 それにもう、そんなに逃げてもいられない。

 跡継ぎが必要だ。誰かに嫁さなければいけない、その事実に変わりはない。嫁いだ相手に神宮当主の座を渡さないとしても、緋華の子が必要だ。


 皆が、緋華が早く婿を迎えて、子を――跡継ぎを生むことを望んでいる。神宮はもともと子供の多くない家系で、今や緋華は唯一その血を引く存在だったから。

 緋華が死んだら神宮家は終わってしまう。禍つ払いの皇家の血筋も、絶えてしまう。それは避けなければならない。

 緋華が家督を継ぐと言い放ったあの時、臣がみな口をつぐんだのは、それがあったからだろう。


 急な状況で慌しく緋華の婚姻を決めるよりは、緋華が時間を稼ぐのも悪くはないと思ったのだろう。

もしくは緋華が家督を継いだところで、簡単なものでないとすぐに放り出して、誰かに委ねるだろうと。緋華がそうしようと思ったのならば、他の者が譲り受けることに問題はない。

 もし今なら、緋華が碧輝を選んでも、あの頃のような反発はないはずだ。

 だけど子を残せば、戦の世は続いていく。


 ――もう一度、改めて考える。

 どうしたいのか。どうすべきかを。

「何もかも終わらせる」

 つぶやきに、男は瞳に問いを乗せて緋華を見る。夜の色の、深い、まっすぐな瞳で。ゆらぐことのない瞳で緋華を捕らえる。

 絡む視線の、狂おしいほどに真摯な眼差しを受けながら、緋華は言っていた。


「あれからもう随分たってしまったけれど、もし今からでも、緋華の命をやるから戦をやめないかと言ったら、飛田殿は応じてくれるだろうか」

 男の目は変わらず、緋華を見ている。ただ、凍りつくように表情が消えた。すうっと冷たい風に引かれたように。


「――命をやる、と」

 思わずのように言葉をこぼして、彼は大きく息を吸う。

「君がそれを言うのか」

 次いで出された声は強かった。怒っているようで、悲しんでいるようだった。

 あまりにも悲しく見つめてくる瞳が苦しい。緋華は口にしたことを後悔した。ごまかすように小さく笑んだ。


「ごめん、ただの弱音だ。本心じゃない」

 それは本当だ。今までどこかで言いたくて、でも口にすることはできなかった言葉だった。


 神宮の姫ではなくて、神宮の当主として、皇家の血筋としてある緋華の言葉は、以前と同じではすまない。例えただの愚痴や弱音であっても、皆の信を失う。

 碧輝の前であっても、支月の前であっても、言えない言葉だった。彼らを苦しめてしまう。

 ――どうしてだろう。誰かもわからない彼の前で、弱音がこぼれたのは。

 何よりも警戒すべきかもしれない相手なのに。

 男はふと息をつくように、小さく笑って目をそらした。


「自分が決めたことでも、息苦しくなることはあるよな」

 張り詰めたようだった空気が和らぐ。そして悲しみをたたえた瞳がなごんで、真っ直ぐに緋華に戻ってくる。

「君が今までしてきたこと、正しいよ。民が証明してる」

「――うん」

 慰めとは違う、はっきりとした言葉につられるようにして頷く。

「俺もそう思ってる。君が命を捨てる道なんて、必要ない」

「ありがとう」

 男は安堵したように微笑んだ。緋華も息をつく。桜紅葉の赤く暗い木々を見上げた。


「でも、どちらかの家を滅ぼすまで、戦の世は終わらないのだろうか。誰も傷つかずにすませようというのは、やはり綺麗事なんだろうか。本来のわたしの役目は、飛田と戦うことではなくて、妖から国を守ることであるはずなのに」

 上坂の城で思ったことを、繰り返し考える。

 禍つ祓いの力を尊ばれたところで、妖を生み出しているのは、神宮と飛田の争いだ。


 こんなこと、やめなければならない。

 男は黙り込んでしまった。そのまま彼が何も言わないので、緋華も口を閉じる。

 冬の近づいた冷たい風が落ち葉を舞わせる。木々をざわつかせ、緋華の髪を乱して通り過ぎていった。枝から揺り落とされた葉が、ひらひらと舞って、間近に音を立てて落ちる。

 再び満ちた静けさの中に、男はそっと言葉を落とした。


「……多分」

 ためらい、惑いながら、沈黙を破る。

「方法は……ないわけじゃない」

 その言葉は静かに、緋華の耳に届いた。

「君が神宮を継いだから、道を開くことができる。きっと何とかすることが出来る、と思う。きっとしてみせる。君が、いいのであれば」

 男は、何者も断言しようのないことを言った。先頃までと変わらない、慰めとも戯れとも違う、確かな声で。ただの人が、この世の流れを塞き止めることなど、出来るはずも無いのに。

 緋華の承諾さえ得られれば、何でもしてみせると言った。


「一体どうするつもりなんだ。飛田殿が、簡単に聞いてくれるとは思えない」

 緋華の言葉に、男は厳かに言った。

「そう、飛田を動かすのは容易じゃないし、神宮も同じだ。だから、まだ言えない」

「神宮は、わたしが……」

「神宮家そのものを、神宮の臣すべての不満をおさえるのは、容易じゃない。君が命じたとしても」

 それはきっと、緋華にとって、神宮にとって、あまり良い方法ではないのだろう。

 それなのに、何をするかも分からないのに、緋華に受け入れろと男は言う。何者かすら分からないのに。

 ――それでも。


「それで、戦乱が終わるなら」

 緋華は、はっきりと答えていた。こんなところで、誰でもない男が口にした言葉を、戯言と受け取ったのではなくて。侮ったのでもなくて。

 もう、誰も苦しまずにすむのなら。緋華が傷を引き受けることで、誰も傷つけずに終わらせられるのなら、何でもする。何でも出来る。国を守る、それが緋華の務めなのだから。そして自分自身のために。

 緋華が神宮を継いだことで、出来ることがまだあるのならば。


「うん……」

 緋華の言葉に、男は頷いた。寄せていた眉をといて、やわらかな口調で。

「終わるといい」

 囁く声はやはり優しい。夜の風はこんなにも冷たいのに、そばにいる人の気配がとても暖かい。何より、彼の心が。

 男が何者か知らない。だけどそんなことはどうでも良かった。安らぎが心地よい。


「がんばってみるよ、もう少し」

 ――君のためにがんばってみる。

 少年の言葉を、思い出す。

 生きてみるといった少年を。


 遠くなってしまった記憶。

 桜の霞に消えてしまったようで、彼の顔を思い出せない。秋月の、桜紅葉の木陰の元、目の前の男の顔立ちもはっきりとは分からない。だけども、なぜか重なる。そうであればいいと願うからか。

 問いたかった。だけどやはり、思いきれなかった。否定されるのが怖くて。

 ――明日からまた、神宮の主として、毅然と立たなければならないのが分かっている。だから。

 今だけは、この安らぎに身を預けていたかった。

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