第二章 千里の知略と黒鉄の槍
1話 開戦
秋の冴えた風が、川面を撫でた。
神宮の軍は、
緋華は陣中の馬上にあった。
緋の鎧を纏った上に、神居の剣を背負っている。
周囲には大将を守る馬廻り衆がいる。出自の正しいものが選ばれる馬廻り衆を率いているのは、武藤家と同じく神宮初代から仕える中原家の嫡男で、中原
彼は緋華より一つ年上で、もともと神宮の初代が中原の祖先と友人同士だったということもあり、緋華とも親しい。
弓を手にした緋華に、秋緑が
鏑矢は矢じりが空洞になっていて、射ると甲高く鋭い笛のような音が鳴る。
鳴り物は、禍つ祓いに使われることが多い。鈴の音、弓の弦をひいて鳴らす鳴弦、そしてこの鏑矢だ。
禍つ祓いの清め舞のように、土地の
妖は人の負の感情に誘われて現われるもの。合戦にはつきものだ。だからまず鏑矢で、妖が近づかないよう布石を打つのが、開戦の儀式だった。
いつの頃からか、この鏑矢の音が戦の合図になった。
兵は集い、静まりかえっている。ただ風が彼らの旗指物をなびかせる。緋華は息を吸い、強く、彼らに向けて声を上げた。
「祝いの国に、禍つはあらじ」
弓を引き絞り、鏑矢を陣の東に向けて放つ。笛のような音が響き渡った。
それを西に、南に放つ。最後の四つ目の音が北の空に消えた後、兵が、怒号のような鬨の声をあげた。
法螺貝の音が太く鳴り響く。
川の水を蹴散らし、兵が入り乱れる。
白の布に赤で桜の紋の描かれた旗を掲げ、赤揃いの鎧を着た神宮の兵と、黒い布に白の字で『蛇』の字の書かれた旗を掲げ、黒の揃いの鎧を着た飛田の兵と。
この川は、山岳地帯の山のふもとに沿うように流れていた。神宮の陣から少し背後を見れば、三連の山がある。山々の合間から細い川が流れ、それぞれが豊川に合流していた。神宮が布陣するのはその合流する地点よりも川上にある。
そして連なった山中、すべてを見下ろすように堅固な城が建てられている。三連の山のうち、武藤が居を移した
神宮家も飛田家も、本陣は後方に構えている。開戦の義を終えた緋華は、大将のための床几に座していた。その右には陣羽織を着た碧輝が座り、その反対に支月が居る。そして武藤配下の武将たちが、場末に控えていた。
戦況を伝える伝令兵が、報告を持ってきては去って行く。
「川の水位は」
「調べさせてあります。例年と変わりなく、何かの仕掛けがある心配もないでしょう。こちらは、神宮の領ですし」
「
「問題ありません。木崎殿が率いて、準備は整えております」
緋華の問いに、次々に答えが返る。状況は、真っ向からのぶつかり合いとは言いがたく、緋華のいる場所まで戦闘の波は届かない。
「飛田は動かないな」
緋華は隣の
「出てきているのは、宇野の子息と、堀内か。対照的ですね」
先の戦で、飛田の主を助けるために命を捨てた宇野の跡継ぎと、野心強い堀内。
宇野はあえて国境に配備されたものだろうが、堀内は、中央から外されてそこにあると言っていい。堀内は飛田晟青の元服の烏帽子親で、飛田の先代は、堀内の娘を飛田晟青に嫁がせる約束をしていたと言うが、飛田晟青はそれを反故にした。
「動かないということは、何か待っているのでしょう」
「無理に突いても無駄か」
何が何でも、飛田の軍を川の向こうからこちらに引っ張り出さなくてはならない。だが飛田は、川を挟んでこちらにまでは駆けてこない。
「焦る必要はありませんよ。待っているということは、あちらから必ず……」
頷いた碧輝は、けれど最後まで言うことが出来なかった。自ら途中で言葉を止め、顔を上げる。
遠く聞こえる喧騒の中、人馬と
「御注進!」
大声で緊急を告げながら、人を蹴り飛ばさん勢いで駆けてくるのは、使い番の伝令兵である。
驚く人々の中、大将の座す陣幕の前で馬を止める。まるで急停止した馬に弾き飛ばされるようにして、鞍から降りた。鎧が騒々しく音をたてる。地面に額をぶつけるような勢いで平伏した。
緊張の走る空気の中で、ありったけの声を出して言う。
「申し上げますっ。物見よりの伝令。飛田の援軍が間もなく到着するとのことです!」
「援軍か」
喜ばしいことではないが、来るだろうとは思っていた。緋華は兵の言葉を受けて、ただ頷く。戦況が動き出す前に現れてくれただけましというもの。――それとも、彼らはこれを待っていたのか。
だが、大将の諾意を受けても、伝令は動かなかった。見てきた兵の数を伝えるでも、報告を終えて去るでもない。
頭を下げたまま止まっている。心なしか、肩が震えているように見えた。
「どうした?」
緋華はなだめるような声で言う。穏やかな主君の声に、兵は少し気を落ち着けたようだった。
「申し上げます」
幾分か鎮めた声で、彼は言う。
「飛田の援軍の中に、『白龍』の馬印が見えるとのこと。援軍の総大将は、飛田
刹那、空気が止まった。
――東に座す人。その名をここで聞くとは。
使い番の兵を注視していた皆が、そのまま身動き取れなくなった。冬の空気の中、凍りついたように。
伝令の言葉を頭の中で反芻する。援軍、そしてその将。
東の鬼が。
緋華は床几から立ち上がり、それきり動けなくなってしまった。問い返す言葉がでない緋華のかわりに、碧輝が聞く。
「間違いないか。副将の姿は?」
「相違ございません。副将は見受けられなかったとのことです」
一度口にして勢いを得たのか、兵はためらわず答える。その言葉に、再び戦慄が走る。
碧輝は緋華にかわって彼の労をねぎらった。伝令の兵は更に深く頭を下げると、大人しくその場を下がる。
「緋華様」
そっと隣から声がかけられる。動じない、いつも通りの声。その拍子、緋華は力が抜けてしまった。そのまま床几に腰を落としていた。大きく息を吐く。
戦に、飛田晟青が出てくる。
たったこれだけのことでも、皆を戦慄させる。
神宮が緋華に代替わりして以来三年間、緋華が出てきている戦に来たことがない。だからその彼がいるというそれだけで、緋華には動揺するに十分な理由だった。
加えて、彼に寄り添うにしていつもそばにいるはずの副将がいない。盾にも剣にもなり、自らの主君を守り続けてきた彼の姿がない。
天の利、地の利、道――従う人心と戦う名分、何をどれだけ整えても、常勝には至らないのが戦だ。だがこれは。
常に無いことがふたつも重なった。
けれど皆の戦慄は、それだけではない。緋華は張りつめた空気の中で、うかがうような人々の思いが分かっていながらも、応える余裕がなかった。
「騎馬を動かす。……わたしの馬を」
抑えた声で、淡々と命じた。討って出る、というその言葉に、硬直を破られた人々があわただしく動き始める。
「緋華様、無茶はおやめください!」
支月が大声を上げた。床几を蹴倒して立ち上がる。
だが引かれてきた馬の鐙に足をかけた緋華は、止まらなかった。騎乗してから毅然と姿勢を正し、振り返る。
「確かめてくるだけだ。すぐ戻ってくる」
言ってから、馬主を巡らす。
「出るぞ!」
腰の太刀を抜いて、控えている騎馬兵に向かって声を上げる。立ち上がって心配そうに見る碧輝に微笑み、緋華は駆け出した。
緋華が出ると、歩兵の小競り合いであった前線は混乱した。
蹴り飛ばさんばかりの怒濤の騎兵に、飛田の歩兵がじりじりと退いていく。緋華はそれに見向きせず、歩兵たちの直中、騎馬を進ませる。
その頃には、飛田の陣が騒がしくなっていた。援軍が到着したのだろう。
緋華は懸命に目を凝らして、黒い旗の中にある白い馬印を探していた。大将所在を示すものだ。白い大きな旗の下には、飛田の大将がいる。
居並ぶ兵達と幕布で、本人の姿は見えない。だが、大きなその旗くらいなら――
だがその馬印とて、河原に布陣する飛田兵の中、幾重にも連なる人垣と旗指物の向こうだ。見えるわけがない。
もっと近づかなければ、見えない。
――でも、近づけるわけがなく。
緋華は諦めて引き返す。飛田の歩兵が退いたのを機に、神宮の歩兵も退かせた。なし崩しの間に、前哨戦は終わりを告げる。
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