7話 力のかたちと本当の姿
日が落ちるには早い時刻だが、雪の降る曇天は暗い。
翌日、緋華が挨拶に訪れた御館では、高燭台にいくつか火が灯されていた。
白蛇城の主殿と
御館に住まうのは、落飾して
寿香院と飛田
護衛の男は、緋華と一緒に御館の中へ入ろうとしなかった。
渡廊から続く濡縁で足を止めると、いつも緋華の居室の外で控えていたように、そこで待つつもりのようだった。
「寿香院殿の元なら危険はないだろうから」
誰も信用できないと言い続けていたはずなのに、男はそう言った。
「随分と信頼しているんだな」
飛田晟青の母親は、彼女に謀殺されたのではないかという噂もある。
「寿香院殿は、無私だった飛田の先代が、無理を通して自分のために城に迎えた人だ。愚かなことをする人ではないと思っている。むしろ、寿香院殿を妬んで暗殺を謀る人がいてもおかしくないほどには、先代は寿香院殿を信頼していたよ」
そう言って護衛の男は、少し困ったような笑みを見せたが。
上座に座る緋華に、寿香院はにこやかに微笑んだ。飛田先代は三十をいくつか過ぎたばかりで命を落としている。彼の側室だった寿香院も、未だ四十に手が届いてはいない。
「わたくし、御屋形様が奥方をお迎えになるとお聞きして、とても喜んでおりますの」
白い尼頭巾を被り、黒に控えめな刺繍の施された打掛けを纏っている。
楚々とした空気の美しい人だった。ゆったりと笑う表情は穏やかで、華美ではない。その佇まいは、緋華が飛田の人間に抱く印象を裏切っていた。
彼女の住まいも飾り気のない場所だったが、その落ち着いた空間がとても似合う人だった。
「飛田の方に歓迎していただけるとは思いませんでした。ありがとうございます」
緋華は驚きながらも、素直に頭を下げた。
飛田の方に、という言葉に、彼女はくすりと笑う。
「そうですね。わたくしは飛田の者というには、身分を持たない家の出ですから、少し違うかもしれませんけれど。神宮様は、とてもお優しい方だとお伺いしておりますわ。晟青様のおそばに、そういう方がいらしてくださることを、とても嬉しく思いますの」
束の間、言葉に迷った。
彼女の真意が分からない。彼女が実の子でない飛田晟青をそこまで思う――思っているように聞こえる、その言葉を言うことが。
何か違う意味が含まれているのか。返答を間違えては、失礼になるのでは。
考える緋華に、寿香院はまた笑った。
「昔の話をお聞きになるお時間はございますか」
「……ええ、勿論」
ありがとうございます、と彼女は頭を下げる。
「本当に、昔の話ですわ。わたくしにも娘がおりました。三つの歳を迎える前に死んでしまいましたけれど、生きておりましたら、神宮様と同じお年でしたわ」
「それは……存じ上げませんでした」
緋華が当主として起つ以前の、それも側室の生んだ姫君のことは、緋華の耳には入らなかった。緋華が生まれた頃かそれ以前のことなら、知らないことでも不思議は無いが、何故だか申し訳なくなる。
そんな彼女に、寿香院は微笑みながら続ける。
「わたくしのそばで眠っておりました。気がついたら、息をしておりませんでしたの。何らかの方法で殺されたのではないかと疑いました。今ではもう、どちらかなどとも分かりはしません。ですが、子を亡くした母の絶望は、正気を失うほどのものなのですわ、神宮様。わたくしは、晟青様が憎かった」
たおやかな彼女が、憎い、という言葉を口にしたことにひどく違和感があった。和やかに微笑みながら、人を憎んだと言う。
過去のこととして動じずに話す、そこに到るまでどれほどの痛みをもって乗り越えたのか。そしてもう、激情に叫ぶときは過ぎたのだ、彼女の中では。
「娘を亡くしてわたくしは自分を呪いました。御家来衆を疑いながら、先代を恨みながら、守れなかった自分が何より憎かったのですわ。そんな折に晟青様は、泣いて喚いて手のつけようのなかったわたくしに、城下で両手にいっぱい花を摘んで持ち帰ってくださいましたの。庭師が育てたものとは違います。野に咲く他愛もないものでした。ですが、あの方はわたくしのために、懸命に駆け回ってくださったのです。わたくしを慰めようと、そのために何かをしようとして、それがあの方にできる精一杯だったのですわ」
誰かに命じるのではなく、自分の手でなせることの少なさ。
――なんだか、分かるような気がした。
「とてもきれいだった。一目見て、あの方が腕に抱えるほどの花を集めるのに、どれほどの労力を要したかわかりました。嬉しかったのです、本当は」
「――それでは」
「ええ、ですが、わたくしの娘と父を同じくする晟青様が、憎くてたまらなかったのですわ。わたくしの娘は死んでしまったのに、あの方は生きている。それが、理不尽でたまりませんでしたの。ただの逆恨みでしかありませんのに。憎くて、そんな相手に慰められるのが我慢ならなかった。憐れまれているような、蔑まれているような気持ちがいたしました。敵に心を許してはと思いました。あの方は、まだお小さかったのに。わたくしは受け取った花をあの方に投げつけて、踏みつけて、泣き叫びましたわ。どういうおつもりなのですか、身分卑しい側室を憐れんで、満足ですかと」
もう、あまり思い出したくもないことなのですけれど、と彼女は言う。自分の痛みのあまり、人を傷つけるのを良しとした、そんな昔の自分を悔いている。
何も言えずにいる緋華に、寿香院は穏やかな口調で続ける。
「神宮様。あのお方は、そんなわたくしを怒りはしませんでした。わたくしの痛みを悟って、ごめんなさい、と謝っておしまいになる方なの。自身の傷を抑えておしまいになる方です。わたくしが身分卑しい側室の身であることに変わりはありませんのに、そういった扱いをなさったことは一度もありません」
そんな彼の姿を、話した人は一人もいない。東の鬼は、鬼でしかなく、いつも緋華を脅かしていた。
人を蔑み、苦しめ、踏みにじり殺害する。そういう人のはずだ。――だけど、碧輝が。
「神宮様、武家の主であるということは、簡単なことではございませんわね」
「……ええ」
「そして飛田の主であるということは、本当に容易なことではありません。土地を治め、将兵を率いることには、両家ともにかわりはございませんし、神宮様も幼くして家督なされて、女の身で大変でいらしたとお察しいたしますが」
戦場での碧輝との会話を思い出した、そのことに被さるように寿香院は言った。そう、まるで彼が言ったようなことを。
「徳も力、知恵も力、富も力、戦場にて振るう
それは何らかの形ではない。他者を従える目に見えないもの。身の内に宿る何かなのだと思った。
ただ、血を継いでいるというだけでは認められない。その血の証す何か。
「あの方は、ご自分の力をよくご存知です。ご自分のお立場も、よく理解しておいでだったはずです。今となってはもう、わたくしもあの方の真意は分かりませんけれども、決して愚かな方ではありませんでした」
「飛田殿は、その力をお持ちだと」
暗愚、非情の主と言われる彼が。
「ええ、無理矢理にでも持とうとなさったのだと思います。そして、美しさもまた力なのですわ。それが他を圧するものならば」
近寄りがたくすら思わせるものならば。
平時にその言葉を聞いたなら、冗談だと思ったかもしれない。戯れだと。
だが寿香院は、やわらかな外見とは、強すぎない言葉とは裏腹に、口にすることがはっきりしていた。守られてただ城にいて、流されるままにそこにいる女性ではない。ただ美しいだけの人ではないと思った。
そして確かに、飛田晟青は人々に呼び恐れられている。昔から美貌の誉れ高い飛田の一族。その中でも随一と讃えられて。――美しき鬼と。
「よく、ご存知なのですね」
「側室として城にあるときはわかりませんでした。わたくしは、先代の思いひとつだけを頼りにここにおりましたもの。先代が安らげる場所を作りたいと願ってここにおりましたが、城内での立場は危ういものでしたから、気を張って自分を守るので精一杯でした。でもこうやって、権力の争いから外れて、皆を横から眺めていると、見えてくるものもあるのです」
飛田の先代は、彼女たったひとりに看取られて死んでいる。城内の、ようやく蕾をつけたばかりの桜の木の下で。それほどに彼女に心を許していた、それでも不安だったのだろうか。
「晟青様が、先代を亡くして、行き場も失ったわたくしを守ってくださった。こうして尼になっても、思い出の名残のある
やはり言葉が出ない。何を言えばいいのか分からない。
たとえ表面だけでも、彼女の言葉に頷くことが出来ない。不可解で、それは緋華が今まで聞き知ってきた敵の像とはまるで違って。
今まで、誰が彼を優しい人間なのだと口にしただろうか。
民を苦しめ臣を身内を殺害してきた彼を。――だけど、緋華が彼のことを何も知らないのも事実。
「なにとぞ、どうかあの方をお願いいたしますね」
寿香院は床に白い手をつき、頭を下げてそう言った。
――言葉が出ない。
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