7話 二人舞

 晟青はきざはしを登り、舞殿に上がった。黒い打掛けの裾をさばく。顎をあげて、集った民を見遣った。

 遠く騒ぎは聞こえるが、この周囲だけは奇妙な静けさに包まれている。滅多に人の前に姿を見せない「美しき鬼」の姿を、人々はただ息をのんで見守っていた。


 緋華も続いて階を上がる。白蛇の民の中に、さざなみのようなざわめきが起きた。あれは誰だ、と。

「神宮様では」

 誰かが声を上げ、ざわめきは大きくなった。緋華が捕らえられ白蛇にいることは、飛田の民も噂に聞いていたはずだった。男装の少女を見れば、思い至るのは当然だろう。


 驚きが伝播していく。

 何が起きているのか、何が起こるのかと、怯える空気もあった。これでは、妖をさらに呼んでしまう。


 その中を晟青が前へ進み出る。途端に、あたりがしんと静まりかえる。遠く争う音だけが響いてきた。

 松明たいまつが風に揺れる。清め雪が舞って、白い息が漏れる。

 睫がまたたいて、重い空を見上げた。

 赤い唇が開き、静かに深い声が謡う。伸びやかに。


 ――ひとつ、光の天伝あまつた

 ただ静かに手をあげる。今は見えない日の光へ向けて。黒い袖が優雅に揺れた。

 遠いあの春の、桜花の山の光景が脳裏に浮かぶ。


 ――ふたつ、冬の清めの雪の中

 冷たい春の風、仄かな花明かり、白い頬の少年。


 ――みっつ、御坐みくらの花舞う春

 花に埋もれて、目を閉ざして動かない。


 ――よっつ、夜半よわの月の下

 死んでしまったかと思った。

 死なないでほしいと思った。


 ――いつつ、いみじき命の祈る

 晟青が袖を振る。雅致がちな指先が外へ開かれるたび、空気が澄んでいくのが分かる。

 禍つが正され、穢れが祓われていく。

 雪が世界を白く清く覆い尽くしていくかのように。


 飛田晟青が殺されないのは、ひとえに副将がそばを離れないからだと言われていた。

 そうでなかったら、臣民が皇家の血への恐れを踏み越えて、いつ彼を害してもおかしくはないと思われていた。少なくとも、神宮の者はそう思っていた。

 しかし、他に聞こえてくる噂もあった。

 美貌の名高い飛田家にあっても、随一と言われてきた。それと同じように、彼ほど優れた禍つ祓いの力を持った者はいなかったと。

 彼はその禍つ祓いの力を盾に、圧政を敷いていたようなもの。

 だけど事実、白蛇は守られてきた。


 その彼の足元に、血の跡が残る。本当は立っているのもつらいはずだ。だが彼は少しも揺らがなかった。

 緋華は目を伏せ、血の色を思考の外に追いやる。今は。彼が隠しているのは、緋華のためで、白蛇のためだから。

 進み出て、顔を上げた。


 ――むっつ、むべ知らすべし秋の穂に出づ

 声をあわせて謡う。夜の色の瞳が、静かにこちらを見た。


 ――ななつ、夏草の繁るは青し

 緋華は神居の剣を抜いた。ゆるりと薙ぎ払う。銀の刃が、月明かりに照る。ひときわ空気が澄み渡る。月に輝く水面のように。


 この剣は、人を斬るものではない。そして鬼を斬るものでもない。

 穢れを払い、禍つを直すもの。澱んだ気を斬るためのもの。

 血に汚れてはならないもの。

 その証として、神宮の初代がその背に負い続け、守り続けたもの。


 ――やっつ、山ごもれる 水辺に深く

 誰かと清め舞を舞うのは、父が亡くなって以来のことだった。幼い頃とは違う、不思議な高揚感があった。

 神宮家と飛田家が共に清め舞を舞うのも、声をそろえて禍つ祓いのかぞえ歌を謡うのも、両家が興って以来、はじめてのことではないだろうか。

 声が重なるのが心地よかった。自然と体が動いた。

 重く濁った空気が祓われていく。二人を中心に、まるく輪のように清い風が吹いていくのが分かる。


 ――ここのつ、こは人の世 鬼の棲家はあらじ

 長い睫を伏せて晟青が笑う。東の鬼の青白い顔は妖しく、美しかった。


 ――とお、永久とわに歌え 常しえの国

 深く息を吐く。そして静かにひとつ、大きく吸う。ひときわ大きく、唱えた。


 ――ひと ふた みい よ いつ む なな や ここの とお

 晟青は朗々と宣言する。


「我が息吹は人にあらじ。こは神の息吹」

 それはまさに、神さながらの。

祝福いわいの元に、禍つ穢れはあらじとる」

 雪の町に、男の声は変わらず、深く遠く響く。

 いつしか悲鳴も怒号も聞こえなくなっていた。人々は、息をのんで舞殿の二人を見守る。顔を上げて、堂々と立つ飛田の主を。

 美しさもまた力。その舞いの優美さは、圧倒的な力だった。


 晟青は打掛けの裾をゆるりと引き寄せる。しんと静まった民に向け、声を上げた。

「飛田と神宮をひとつに、皇の血あわせ、国をひとつにまとめる。戦をおさめ、妖の脅威から国を清める。今日はそのはじめだ」

 青ざめた唇で、嫣然と笑った。鬼と恐れられてきた執政者の言葉に、疑い、人々は顔を見合わせる。そして壇上のふたりを見た。まごう事なき神宮の姫の姿を。ふたりが行った清め舞を思い出す。

 そして、わあ、と歓声を上げた。先頃までの動揺とは打って変わった、明るい空気が弾ける。


「まさかこのような時がくるとは」

 民が声を上げる。高揚して口々に叫んだ。雪の降る夜空の下、白い息が舞った。

「このような美しいものを見せていただけるとは」

「国がひとつに」

「御屋形様」

「神宮様」

 歓声が、雪の中に沸き起こった。痛みのせいか晟青は唇を引き結んだが、民に応えて笑みに形作る。

 首を傾げて、隣に立つ緋華を見た。そして小さく苦笑した。すこし照れくさそうに。少年の頃そのままの顔だった。



 そんな彼を、緋華は愛しいと思う。傷ついて血まみれでも、立ち上がって生きようとする彼を。

 彼が何者か分かっても、その手がどれだけ罪深くても。逃げずに戦い続ける彼を、愛しいと思った。


 歩いて行けると思う。自分を戒めて、決して後悔せず、それでも苦しみ続けた人となら。

 この国と民を守っていける。

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