終章

君とみる春の夢

 婚礼を翌日に控えた日、緋華は川辺に一人で立っていた。いつもと変わらず質素な男装で、髪を結いあげ、腰に刀を帯びて。

 暖かな日差しの中、小さな川のささやかなせせらぎの傍、菜の花の群れの中を歩いていく。白い蝶がひらひらと、黄色い花の間を舞っている。


 静かでうららかな、春の午後だった。

 草木のさんざめく音が聞こえて、緋華がそちらを見遣ると、菜の花の中を歩いてくる人がいる。

 いつもと変わらず、無造作に黒髪を束ねただけで、白い小袖に鈍色の袴を纏っている。晟青は緋華を見つけると、美貌を和ませて笑った。冷淡に思われる整いすぎた顔は、そうすると、とても穏やかになる。


「一人で来たの? 不用心だな」

 自分のことは棚に上げて、緋華は笑う。

「俺のことを見知っている人間は少ないから、問題ない。それに見張りもちゃんといる」

 少し離れたところに、栗色の髪の、長身の男が立っている。銀夜は呑気に、飛び交う白い蝶を目で追っている。


「護衛じゃないの」

「見張りだ。昔俺がひとりで勝手に死のうとしたのを、ずっと根に持ってる」

 そうだろう。彼ならば。

「君こそ、急に姿を消したから、武藤殿が探しまわっていた」

 だから城下に来てみたのだと、晟青は言う。また怒られるかな、と緋華は苦笑した。


「父上が亡くなった後も、こうして城下に来たんだ。あのときわたしは、ここに暮らす人たちを、守らなければいけないと思った」

 争う臣たちの行動が落ち着かなければ、桜花の城下に住まう人々にまで混乱は起きる。家中で戦にもなりかねない。

 今の状況は、あの頃に少し似ている。

 皆が、緋華たちがこれからしようとしていることを、受け入れるとは限らない。堀内が白蛇で緋華と晟青を殺そうとしたように。


「明日、何もかもが変わる。その前に今のままを見ておきたかった。この平穏を守るために」

 飛田の世にするのではないのだと、世間に知らしめるため、桜花で婚儀を挙げる。

 暗愚を装った晟青が強引に飛田の臣を連れて来て、桜花の城も、城下も、緊張状態にある。敵対して、いがみあっていた者たちが一つの場所に集まっているのだから、当然だ。そして人が集まれば、逆に隙もできる。

 何かがあれば混乱は避けられない。だからこそ、しっかりと気持ちを固めたかった。


 どこからか、緋華を呼ばわる大きな声が聞こえてきた。見れば支月が向かってくる。

 ずっと緋華を、神宮を見守ってきてくれた爺やに、緋華は大きく手を振る。

 菜の花をかきわけるようにして駆け寄ってきた支月に、緋華は咎めるように言った。

「病み上がりで、無茶をするな」

「誰が無茶をさせているのですか」

 肩で息をして、あきれ顔で支月は言う。


 そして銀夜を見て、晟青を見て、少しうろたえた様子で言った。

「まさかご一緒とは」

「俺も少し探しに出てみただけだ」

「お城からお姿を消す倣いが、東の方にもあるとは思いもよりませんでした」

「あからさまな皮肉を言われるのは新鮮だ」

 晟青はおかしそうに笑った。

 非道で名を知られる東の当主は、今はその片鱗もない。まったく響かない相手に、いえ、といくらか憮然として、支月が言う。


「桜花に明るくない東の方に、御屋形様を先に見つけられてしまうとは、爺やの名折れにございます」

 誇りを傷つけられたような支月の言葉に、緋華は笑う。春の水色の空の元、ここだけは和やかだ。

「今この地に集っているのは神宮の臣だけではないのですから、お気を付けくださいと何度も申し上げましたのに」

 笑った緋華に少しばかり拗ねたようで、支月は叱るように言った。


「わかってる。でもわたしの身よりも、飛田の臣に何もないよう、気を配ってもらわないと」

「それはもちろんそうですが、何よりお二人が御無事でないことには」

 うん、と緋華はうなづく。

「帰ろう。明日のためにやることがたくさんある」

 歩きだした緋華を追って、晟青はその少し後ろを行く。銀夜が先を譲ったので、数歩後を憮然とした支月が進み、その後ろに銀夜が続いた。


 緑の芽吹く道を歩く緋華に、行き過ぎる人々が、笑いながら頭を下げていく。

 子供たちが駆けてきて緋華を取り囲み、緋華がいなかった間の出来事を口々に話し始める。そして親たちに叱られると、いつかと同じように、散り散りに逃げて行った。

 城下町を避けて、小谷口と呼ばれる、城へ続く小道を歩いていく。山へ足を踏み入れれば、そこは淡い薄紅に包まれた境地だった。

 日の元で桜は、賑々しく、短い花の盛りを咲き誇っていた。生を語るにふさわしい華やかさで。


 いくらか山中を歩いて、晟青が足を止めたのに気付き、振り返る。彼は桜を見上げていた。桜雲の先、遠く明るい蒼穹を。

 彼のそばには、もう妖は現われない。

「かなうはずのない願いがかなった後は、どうなるんだろう」

 ひとりごとのようにつぶやく。

 己の望みのために、何もかもを騙し、時代を巻き込んだ人が、そんなことを言う。

 その願いのために、その願いすらを捨てて、自分自身をも殺して来た人だからこそ。


「幾度でも、新しい願いを思えばいい」

 緋華の言葉に、晟青は、見上げていた顔を緋華に向ける。夜の色のただ静かな瞳で緋華を見た。少年の頃の春の夜とは違う、あの暗い秋の夜とも違う。風が枝から花をさらい、流れていく。

 そうだな、とつぶやく。少し、困ったように。


 だから緋華は、明るく笑って言った。

「一緒にがんばろう」

 幼い頃のように、神宮が守るとも、わたしが守るとも、言わなかった。どちらかに寄りかかるのではなくて、共に歩いて行こう、と笑った。

 あの夜の月の輝きも、花冷えの冷たさも今はない。明るい花霞のもと、晟青は微笑んだ。

 そして彼は歩きだす。緋華の元に追いついてきた晟青と並んで、緋華も歩きだす。


 もう言葉はない。たくさんの思いは、二人とも、簡単に口にすることができない。

 ただ懐かしさを語ることも、横たわる年月に起きた物事が邪魔をして、言葉にでてこない。いずれ、少しずつ、ほどけていくものかもしれない。


 ここからすべてが始まった。けれど、これからが本当の始まりなのだと、思う。

 暖かく見守る日輪の中、桜は風にそっと揺れながら、花びらを降らせている。その中に細く延びる道を、肩を並べて歩いていく。

 夢のような、けれど夢ではない情景。それを確実に、現実にするために、失わないために踏み出していく。

 その光景は、国の未来を呈示するかのように、明るい。



                         了

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春には君の夢を――戦国恋話 作楽シン @mmsakura

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