9話 道の先
緋華は他の者が引いてくれていた馬に乗り換え、神宮の軍は再び山中を移動していた。男が道を示す通りに、山を迂回する。
元々神宮が陣を敷いていたのとは反対側に出れば、その次の山が鴻山だ。
見回す周りには、木ばかり。枯葉に交じり、この季節にも葉を落としていない木が多く、視界がいいとは言い難いものだった。そのことは誰もが重々承知している。
縄を解かれた男は、緋華の隣を歩いている。そんな傍近くにいかせるなど、と支月は反対したが、緋華が押し切った。
何を考えて、男が再び姿を見せたのか分からない。だが、わざわざこの戦の中に、命の危険を冒して緋華の前に現れたのは、神宮を導くためだけとは思えなかった。ただ、理由を期待していただけかもしれないが。
「君に選択を委ねる」
前を向いたまま、唐突に男が言った。
「何のこと?」
緋華は驚いて、男を見る。けれど彼は、こちらを見ない。
「この先、二つの道を示されることになる。どちらを進むか選ばなければならなくなる。この国の行く先を決める選択になる」
一介の武士が、ただの人が言える言葉ではない。大それた言葉だった。だが、男の声は戯れを言っている様子ではなった。
「重責だな」
緋華は、小さく笑みをもらす。侮ったからじゃない。
国を左右する選択。当主を継いだときからずっとしてきたことだった。それを分かっているのだろう、少しだけ、男が笑った気配がした。
「どうせどちらをとっても、難しい道だと思う。だから、何も考えなくていいよ。自分がどうしたいかだけを選べばいい。何が起こるかは考えなくていい。後の責めは考えなくていいから」
「どうして」
「君がいいのなら、道を用意すると言っただろう。道は無理矢理にでも作るものだ。平坦ではないけれど、歩くことはできる」
何かを望んで、軽々と歩める道は無い。それなのに、道の無かった場所に通して見せたと、男は言った。やはり、それは土地の民などが口に出来るものではない。
――ついてきて良かったのか。
恐れが、一瞬緋華の心を包んだ。だが男は緋華を見上げる。桜花にいたときと変わらない、明るい笑みで言った。
「自分の行きたい道を選んで」
理屈はいらない。感情の命じるままに。
それは今まで、誰も緋華に言わなかった言葉だった。
突然、周りの木々が乱暴に音を立てた。多勢の足音が聞こえる。折れた枯れ枝が、擦れた葉が音を上げる。突然の物音に、驚いた馬が騒いだ。
神宮の兵達が動揺して声を上げる中、緋華は馬を宥めながら眼前を睨みつける。
枯れ木の向こうから、駆けてくる姿がある。それぞれに黒い指物をした飛田の兵。奇襲だ、数は多くない。だがそれは、こちらも同じ。
何より悪いことに、取り囲まれている。
「隊列を乱すな! 頭を低くして陣盾を構えよ!」
騒然とする、浮き足立つ兵達に、支月が怒鳴る。山中、その声はこだまして響いた。
「緋華様、あの男は!?」
叫ぶように問う支月の声にはっとして、先ほどまで彼がいた場所を見る。――いない。
男の姿は忽然と消えていた。
やはり信じるべきではなかったのか。せめて
桜花で会った時、どれだけ不審でも、彼は嘘で誤魔化そうとはしなかった。だから根拠もなく信じていた。頼れる者がなくて、ただ、何かにすがりたいと思ってしまった。
彼自身は緋華を害そうとはしなかったが、この状況は何よりも悪い。
――騙されたのか。
「罠か!」
支月が唸る。
「さあ、どうでしょうね」
くつくつと喉の奥で笑う声が聞こえた。伸びやかな声に誘われるように、緋華は真正面に顔を向ける。
緋華の視界よりも少し高い位置、木々の中に弓をつがえる兵が十数人いた。その中に、泰然と腕を組んで、薄ら笑いを浮かべる飛田家副将軍がいる。そして彼の脇にいる兵の弓は、確実に緋華を狙っていた。
――先回りされた……!
ぎり、と奥歯を噛みしめて、緋華は彼を
「やあ、どうも、また会いました」
飛田副将、
だが戦場で、普段通りでいられること自体、普通ではない。かえって、剛胆なのか、ただ無頓着なだけなのか、考えが足りないのか、分からない。
「緋華様、下がって」
馬廻り衆が素早く駆けてきて、緋華を後ろに庇う。飛田副将の態度をまるきり無視して、
「こうなったら、我々があなたの盾になりますから、決して表に出ないでください」
次いで、横にいた支月が言う。だがそれを見て、飛田の副将は楽しげな笑みを深めた。
「さあて、どうします。神宮の桜姫は」
彼の態度を黙殺した神宮の将同様、否それ以上に、緋華を後ろに庇って睨みつけてくる兵たちを通り越して、眼差しは緋華に向いている。
「絶体絶命。この状況から抜け出すのは、さすがに難しいでしょうねえ。ちなみに言っておきますが、城の方は、うちの軍が先回りして包囲しているはずです。困りましたねえ、これで逃げ場はなくなってしまいました」
緋華が黙っていると、彼は呑気な口調で続ける。鼻歌でも混じりそうな風情だった。
まわりの空気が棘を含み始める。神宮の兵が、怒りに満ちていくのが分かる。飛田副将も気がついているはずだったが、気にした様子も、改める様子もまるでなかった。
「まあ、皆を盾にすれば、あなた一人くらいは逃げることはできるか知れませんね。ここは神宮の領内ですから、逃げ出せば、城の方はどうあれ、あなたは生き延びることが出来るかも知れません。それともお優しい神宮の桜姫は、他人を犠牲になんて出来ないとおっしゃいますか? 自分だけ生き延びるなんてとんでもないと言って、全員一緒に死にますか? ……そうですねえ、亡くなった軍師殿の後を追うとか」
その言葉に、支月の肩が緊張した。――もはやはじめの動揺など、どこかへ消えている。もともと神宮の兵はよく訓練されて、統率力がある。多少は揺れてもそれ以上にはなり得ない。
そして彼らの動揺を鎮火したのは、投げかけられた、あまりに不遜な言葉。
けれど東方飛田家の不遜な副将軍は、場に満ちた敵愾の視線など意にも解さず、更に続けた。
「悲観して死にますか?」
「……黙れ」
緋華は、低くつぶやく。怒りを抑えられない。支月の驚いた目がこちらを向くが、緋華は脇を守っていた騎兵に退くよう命じた。
「緋華様」
慌てて止める支月をも一瞥しただけで、秋緑の前に出る。
緋華は馬上で背筋を伸ばし、ただ敵を睨みつける。矢が浴びせられる気配はなく、敵は変わらない笑みを浮かべたまま、おもしろい余興のように彼女を見ていた。
「わたしには生き続ける責務がある。……神宮の領土に住む民が天下泰平を信じてくれている以上、わたしは生き続けなければならない。死んで飛田に領土を踏み荒らされるわけにはいかない。誰を犠牲にしても、最後の一兵になっても、わたしは生き続ける。国を守る皇家の血の務めだ」
本当は、悲しい。立っていられないくらい悲しい。
だがここで挫ければ、すべてが無駄になる。今までしてきたこと、皆がしてくれたこと。命を投げ打ってまでしてくれた、そのすべてが。
何事にも狡いのが君主だ。千の民のためなら百の民を見捨てる。戦のために民を駆り立て、そうして連れてきたのは緋華自身なのに、彼らを盾にして生き延びなければならない。さらに多くの民のために。託された願いのために。
だから緋華は、顔を上げて目前の敵を睨みつける。
「一体、何がしたい。何が言いたくて、わざわざ待ち伏せて姿を見せた」
言われて相手は、おや、とつぶやく。少しだけ眉を上げて、気がつきましたか、と。
「お願いがあったので」
すぐに目を細くして笑って、彼は言った。緋華は言葉を返さない。相手もそれには構わず、続けた。
「神宮の桜花は、春に美しいでしょうが、これからの季節は飛田の
西の神宮家、東の飛田家。
美しい春の桜花、そして雪の白蛇。世に聞こえた名所だ。
桜の時節、城下で禍つ祓いの儀式を行うのが神宮の慣習で、大きな賑わいを見せる。春にあの桜を見ずには死ねぬとまで言われる場所。それと並び証される東の都、白蛇。
白壁の町と城に降り積もる雪の美しい場所だと、聞いたことがある。
――だが、何故今それを。
緋華は言葉を継げずにいる。
飛田の副将は、懐こい顔で、にこりと笑って言った。
「雪見に、白蛇にいらっしゃいませんか」
遠まわしな言葉だ。
「まさか本当に、遊山にいくわけではないだろう」
――真意は。
ぴりぴりと張りつめた空気を向けられて、飛田副将は少し驚いた顔をしてみせた。わざとらしい。
そして再び、笑いながら言う。
「神宮には、緋華姫ひとり。飛田には、我が殿ひとり。互いの家に残された最後の一人です。緋華姫にも、跡継ぎを望む声は多いでしょうが、飛田も当然の状況でして、いい加減に家臣もうるさいので、お嫁をいただこうかと言うことになりまして」
まさか。何を言い出すのだ、この人は。
わざとらしい、遠まわしな言葉に苛立つよりも驚いた。その呑気な笑顔を見ていると、彼がただの
捕虜ではないのか。捕らえて命を奪おうとか、神宮の将を言いなりにしようとか。そういうことではないのか。
――その言葉の意味するところは、まるで。
「うちの殿のお嫁にいらっしゃいませんか」
頓着無く言葉が放たれる。
政略結婚。
緋華が何も言えずにいるところ、叫んだのは支月だった。
「ふざけたことを!」
怒りを抑えられない声で大喝した。
「緋華様は、身命を賭して、お守りいたします。神宮の領民だけでなく、この国全土に住む者にとって、救いとなられる方だ。このようなところで、このような世迷い事につきあうなどもってのほかだ!」
始めの方は緋華に、そして最後の方は飛田副将に向かって怒鳴っていた。けれども、嫌悪を隠しもしない声で容赦なく言われながらも、飛田副将は気にした様子がない。
「世迷い事かどうかはともかくとして、うちの殿さんは、神宮の緋華姫との婚姻による同盟を望んでいます。皇家をひとつに束ねる、他にない名案だと思いませんか」
呆気にとられて、声も出なかった。
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