10話 願いの選択
それは武家がよく使ってきた、同盟を結ぶときの手段。
しかもそれが当主自身のものならば、確かに神宮も飛田も、なくしてしまえる。
しかし一体どういう事なのだろう。どうして、飛田がそんなことを言って来るのだろう。まったく訳が分からない。
「はじめは、捕虜としてお連れします。そこは我慢していただきたい。そうでなければ事を運べないので」
神宮と飛田の対立は、公然としてそこにある。
遥か昔に、飛田が国を乱し、神宮の家が興ったときから。その因縁は、時代を継いで、ずっとずっとあり続けた。
もしこの話を思いついても、真っ向から申し出て、受け入れられるものじゃない。緋華がもし話を受けようとしたところで、家臣団の猛反対を受ければ、話を通せるわけもない。
だから、緋華を捕らえて、押し付けることにしたというのか。
本当に鴻山の城が包囲されているのなら、どう考えても神宮は今回の戦で惨敗だ。
そこで当主が捕らえられ、捕虜となって飛田に連れて行かれてしまえば、神宮の家臣はもう何も手出しは出来ない。
彼らが緋華を捨てて勝手に動くのでなければ。そこで飛田の当主が政略結婚を言い出したところで、断ることなど出来るわけもない。断れば緋華は殺される。
「この状況で、わたしに拒否する権があると思うか」
「お好きになさってください。まだ我が殿と銀夜の間だけの話でしかないから、今なら引き返すことは可能です。考える機会は今しかない。よく考えてそれでも拒否なさるなら、さっきはああ言いましたけど、鴻山から手を引きましょう。今回の戦はなかったことにします」
「……何を言っている?」
「実は、今回の戦、負けるつもりだったんですよ。少なくともうちの殿は、勝つつもりはなかったんですけどね、それでも急に勝たなくてはならないことになってしまったんで、少々危険でも強引な手を使いました。すべてはこの瞬間のために」
彼はこの緊張の中においても、のんびりと言葉をつむぐ。
緋華は乾いた空気を吸う。喉に詰まって、苦しかった。
「そのために碧輝を殺したの」
責める声は出ない。ただ哀切をともなって、言葉がもれた。
「軍師殿を黙らせろ。その下知がありましたからね」
「黙らせる?」
「まあ、多少は痛い思いをしていただけということですかね。軍師殿がいては、あなたと話ができない。神宮は揺るがない。だから、しばらく黙らせろと」
彼の言葉にはまったく屈託がない。幼子のように。
「銀夜は他の人間のことなど考えませんし、神宮の軍師殿の生き死になど、関知しません。黙らせろと言われたから実行した。手傷を負わせられればそれで良かったけど、まあ、あの状況であまり手加減は出来ません。銀夜も、あなたと話す前に死ぬわけにはいきませんでしたからね」
飛田晟青その人が出てきたということも、緋華に動揺を与えるには有効な手だ。そして碧輝を殺したという事は、緋華の拠り所とする人を奪う意味でも、他の者たちの意を挫くことで意味は大きい。
そしてもし今、碧輝が生きていたなら。例え負傷していても、この場にはいなくても、彼がいたなら緋華ももっと違った反応になっただろう。
誰もがここまで落胆しなかった。彼がなんとかしてくれるだろうと、一縷の望みを託していたはず。
何より緋華は碧輝に支えられて、領地の統括と領内の統治をやってきた。精神的にも、
神宮家家中で最大の柱だったのだ、彼は。
彼を失うことは確かに、緋華の足場を削るには十分すぎることだった。
同時に敵対心を、憎しみを煽るとは、思わなかったのだろうか?
「婚姻による同盟か」
気を落ち着けるように、低く言葉を落とす。
「飛田の天下になるのか」
捕まって殺されるかわりに結婚となれば、緋華にどれほどの権が残るだろう。神宮の将兵は、どのような扱いを受けるか。飛田の天下になるも同然。
だが飛田の副将は、緋華の言葉に肩をすくめた。
「飛田の天下になったら、困るんですか? 別に、そんなつもりはありませんけど」
「戦を終わらせることに異存はない。天下もいらないし、権力もほしくない。だがわたしは、民を守る責務がある。東を混沌におとしめてきた飛田殿が、態度を改めずにこのまま国も苦しめることになるのなら、戦を終わらせても意味がないだろう。もし飛田殿がちゃんと民を守り、神宮の家臣の安泰を約するのなら、この話を受けよう。わたしは奥で大人しくしていてもいいし、禍つ祓いを行うだけの道具になってもいい」
「その必要はありませんよ」
飛田副将は、のんびりと言った。――本当にこの人は、何もかも物事が分かっていて口にしているのか、不安にもなる。同時に、簡単に否定するようなことを言われて、腹も立つけれども。
「皇家をひとつにすると申しましたでしょう。あなたに評定から退いてもらおうとは思っていません。飛田の天下も望んでいません。そもそも飛田の天下になって、神宮の家臣がおとなしく従うとは思えません。水面下だろうが表沙汰にだろうが、いさかいが起きるに決まっています。でもそういう混乱はこちらの望むところではありませんし、あなたも同様のはずです。それでは戦を終わらせたことにもならないでしょう。だから、あなたには奥に引っ込んでもらっては困ります」
「飛田殿が、そう言ったのか」
しっかりと現実を見た言葉だ。平和を夢物語で済ますつもりはないと言うことか。
しかし、考えれば考えるほど話が大きすぎて、実感できない。前例もないから、成功するのかどうかなんて分からない。
本当に、現実に、できるのか――?
先の緋華の言葉に、飛田の副将は、平然と言った。
「そうですよ」
「絶対に反発が起こる」
「それでも、飛田の臣にはもう、さほどの余力はないはずです。うちの殿のせいでね。あなたが神宮の臣を抑えてくだされば、さほどの動揺もなく済むはずだ」
政略結婚など。
うまくいくはずがない。だけども。
「あなたを信じていいのか」
信じられるのか。その言葉を。
「さあ、どうでしょう」
飛田の副将は、あっさりとそんなことを言った。緋華は意表をつかれて、すぐに言葉が出ない。この人は、交渉にまったく向いていないのではないか。
「あなたは、飛田殿を信じているのでしょう」
この副将がいなければ、飛田晟青はとっくに暗殺されていたと言われている右腕。そして彼の命でたくさんの命を奪った懐刀。
「信じていませんよ」
にこりと笑って、彼は簡単に言ってのけた。
「信じるというのは違います。晟青は考える頭で、銀夜はただの手足です。銀夜をものさしに晟青をはかるというのはやめた方がいい。晟青の意志は銀夜の意志で、ほかの何でもないから」
信じているのではない。別個のものではないのだと言い切った。
「あなたが選んであなたが決めればいい。あなたが、この飛田の副将を信じてもいいかどうか、この話を受けるべきかどうか、決断してください」
誠実なのか、無頓着なのか。
わからない男だ。その変わらない表情も、飄々とした態度も。間違いではないが、正しいとも言いたくない。
こんなところに出てきてまで、国を左右する決断を仰ぎたいなら他に言いようもあるはずなのに、彼は突き放した言い方をする。笑いながら。
「だが、約定を違えない証左がないなら、国と民を背負うものが軽々しく受けることなどできない」
「それなら、どうしてここまで来たんですか?」
あっさりと彼は核心をつく。
――この道が、城へ辿り着ける道だという確証はなかった。
この道の先に、飛田の兵がいないという裏付けはなかった。なのに、案内をするという男についてきてしまった。桜花での彼の言葉を信じて。
緋華が言葉に詰まった。それを見越したように、彼は続ける。
「証が欲しいと言うのなら、この状況を考えてみてください。敗走中とは言え、そちらは数百、こちらは数十程度の手勢しかいません。奇襲であれば、あなただけでも討てたでしょうが、こうして姿を現してしまいましたしね。銀夜は一騎当千のつもりですが、それにしても、ちょっと不利ですねえ」
単身、敵陣に飛び込んできたと言ってもいい状況だった。彼がまだ兵を隠しているわけでないのなら。
本当に、どうやってこの場を脱するつもりなのだ。この人は。
「信用の証に死ねと言われたらそうして見せてもいい。ただし、今後のあなたを支持する者がひとり減りますけども」
にこりと笑って言った。
こんなに、己の命に無頓着な人を知らない。命を惜しまず戦場を駆ける人々とも、まったく違う次元のものだ。
自棄ではない。信念ではない。こだわりも見えない。本当に、己の意思などまるでそこに介在しないように。だけど、空虚でもない。
奇妙な男だ。
緋華はもう、それ以上反論することができなかった。
見も知らない男に嫁ぐのは、別に構わない。そういうものだから。――そういうものなんだ、だから構わない。
本来ならとっくに嫁いで子を産んでいなければならなかった。本来ならば、それが緋華の唯一の役目だった。
構わないのだけども。
「ねえ、緋華姫」
伸びやかに飛田の副将は言う。刀を構えた神宮の将兵も、自分の横で弓に矢をつがえている飛田の兵も、まったく見えていない様子で。
「あなたは、どうしたいのです」
先刻、支月にも問われた言葉だった。
どうしたい。
当主を継いだときのように、感情だけで走ることが出来ない。自分の行動が、たった一言が、どれだけの人を巻き添えにするかを分かってしまったから。
――だけど、考えなくていいと言った。
あの男の言葉を思い出す。
道が二つ用意されていると彼は言った。用意したのだと。強引に。
選びたい方を選んでいいと、言った。
理屈はいらない。他人の命も、国のことも、治世のことも、何も考えなくていいのなら。
逃げ出したい。この戦場から。何もかもを奪っていくここから。
だけど守りたい。守りたいからここに立っている。
――だけども、守りたい人をまた失ってしまった。
もう失いたくない。これ以上取りこぼしたくない。
ただ、父が望んだように、笑っていたいだけなのに。
大好きな人と、平穏に暮らしていたいだけなのに。城下の人たちと気軽に話して、懸命に働く人たちを見て励まされながら、彼らを守りたい。憎むよりも恨むよりも、悔やむよりも、笑っていたい。
――逃げ出したい。だけど、逃げたくない。出来ることがあるのなら。
逃げるよりも泣くよりも、顔をあげていたい。
前を向いていたい。神宮の祖先がそうであったように。あきらめずに、進み続けたい。例えただの意地でも。
血を流し命を奪い、絶望する以外の方法があるのなら。そして、わたしがわたしであるからこそ、なせる事があるのなら。
緋華が神宮を継いだからこそ、出来ることがあるのなら。
「戦が、終わるんだな」
つぶやく。飛田副将はそれに対して飄々と答えた。
「まあ、うまくいけば」
「誰も死なせずに、終わるんだな」
「そのつもりですけど」
――信じられるのか。
この人を、飛田を。緋華をここまで導いた、あの男を。
惑う心はやはりどこかにある。でも、これでやっと。
さらに逡巡したのは、ほんのわずかの間。
「……支月」
低くつぶやいた緋華に、後ろに控えたままの支月は、覚悟していたように言った。
「緋華様、いけません。お一人で敵地へ行くなんて、冗談じゃない。せめてお供いたします」
「それじゃあ、意味がないんですよ」
止めるのは無理だと、支月は分かっているはずだ。せめて、と言うけれど、飛田副将はのんびりと否定した。
あくまで始めは捕虜として緋華を白蛇へ行かなければならない。身を守ってくれる重臣と一緒というわけにはいかないのだ。
「しかし」
「もし緋華姫をお預けいただけるのなら。御身の安全は他でもないこの銀夜が約束します。当代最強の名にかけて」
戯れ言を言うかのような彼の表情は、信憑性というものがまるでなかった。
けれども、薄ら笑いを浮かべるその顔で、自ら当代最強という彼を、否定できる者などいない。本来なら人が下すべき評価を本人が口にしようとも、慢心だと責めることが出来る人などいない。己の力を、十二分に理解している。慢心ではなく、ただ理解している。
「支月、頼む。臣の歯止めになって」
「緋華様……」
不安そうな支月の声が、追ってくる。自棄になっているのかと問われた気がする。緋華は振り返り、いつも緋華の身を案じてくれる爺やに、しっかりと笑って、応えて見せた。
緋華を見守る神宮の将兵たちを見る。枯れ色の山の中、疲弊して、血と泥にまみれた彼らの眼差しを受けて、飛田の副将へと目を戻す。
黒金の鎧をまとった、頑強な武将。そして、黒い鎧の飛田の兵たちを見る。飛田副将の率いる兵は、選りすぐりの精鋭だ。平静な目で、冷徹な目で緋華を見て、弓をつがえている。命令を待っている。
あの目が、東の城では待っている。
――大丈夫。
死んだりしない。何が待っていても、生き延びてみせる。
こんなことで戦が終わるのなら、それがいい。飛田晟青が本当に緋華と協力して、態度を改める気があるのなら。
もしそうでないのなら、緋華にも覚悟がある。
戦乱を終わらせる。
そのための道。平坦でないけれど、歩くことはできる。彼はそう言った。
「飛田家に行く」
緋華は、思惑の知れない飛田副将の笑顔を見て、そして静かに微笑んだ。
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