8話 責務と願いの間
気がつくと緋華は揺れる馬上にいた。
俯いた首が、振動にあわせて揺れている。次いで体を支える腕を感じた。誰かに抱きかかえられて、馬の上にいる。
まどろみの中でそれを悟ってから、改めてはっきりと目が覚めて、周りの景色が一変していることに気がついた。土の匂いがする。
「碧輝……」
いつも通りに呼んで、一体どうなったんだと問いかけようとして、緋華は激しく後悔した。
答える声はない。あの笑顔はない。もう、どこにもいないのに……。
「お目覚めですか」
かわりに応じたのは、支月だった。間近から聞こえた声で、彼女は支月に支えられて馬上に相乗りしていたことに気がつく。
「戦況は」
うつむいて馬のたてがみを見ながら緋華はつぶやいた。支月は詰めた息をそっと吐いてから、言う。
「山沿いに姿を隠しながら、鴻山の城へ向かっております。飛田の追っ手はありません」
言われて顔を上げると、あたりは木に覆われていた。土の匂いがすると思ったのは、山中を進んでいるからだ。辺りが暗いのは、日が暮れかかっているからだけではないだろう。木々にさえぎられて、視界が悪い。
「降ろしてくれ。自分で乗れる」
緋華が静かに言うと、支月は今度こそ大きく息を吐いた。
「大事ありませんか」
「平気だ」
緋華はしっかりとした声で答える。疑うことを許さない、反論を寄せ付けない声で。
――大丈夫なわけがない。
緋華自身、思うのだが。感情を抑えてそう答えるしかない。他の答えは用意されていない。
支月は緋華よりも分かっているのだろう。だから、心配そうな目を向けただけで、何も言わなかった。
ゆっくりしている
碧輝の遺体は、急拵えの担架で運ばれている。緋華は未だそれを直視できなかった。
「御屋形様!」
支月の用意した床几に腰かけようとしていた緋華の元に、周囲への警戒に当たっていた木崎が駆けてきた。
「山中に怪しい者が。ひっとらえましたが、いかがいたしますか」
「飛田の斥候か」
「それがどうも――自分からこちらに近づいてきまして」
「今はどこに」
尋ねると、木崎は後方を見遣った。馬廻り衆の後ろから、後ろ手に縄をかけられた男が、引っ立てられて来る。
ぼさぼさに乱れた髪をして、袖丈の短い衣服も薄汚れ破れて、そこから伸びる手足も泥にまみれている。顔は伏せられていて分からないが――飛田の斥候でなければ、この近隣のどこかの村の者か。
戦があれば、周囲の村は多大な被害にあう。逃げてきたつもりが、陣中にまぎれこんだとあってもおかしくはない。それとも、逃げ出してきた飛田の民か。
後ろから兵に突かれて、男は緋華の前に崩れるように膝を着く。
「何故こんなところにいた」
斥候かと尋ねて、生真面目にそうだと答えるものはいない。
「戦見物が趣味の物好きって案外多いんだけどな」
笑い含みの声が応えた。
軍の只中、兵に捕らえられ、引っ立てられた者とは思えない、怯えのかけらもない声だった。何より――どこかで、聞き覚えのある声だと思った。
「お前、その物言いは!」
「いいんだ、支月」
憤慨して声を荒げた支月を抑える。そして緋華は、再び男に向かって言った。
「戦見物の民は、渦中に足を踏み込まない」
「ここにいるのはおかしい?」
当然のこと。だからこそ、捕らえられ引っ立てられているのに。
ふてぶてしい態度に半ば呆れた。この居直った態度、そこらの村の民とは思えない。だが、飛田の斥候ならば、捕らえられてここまで平然としているだろうか。
逡巡する。
聞き覚えのある声。そして、何者かと問うて、はっきりと身を明かさないその態度。まさかと思うが、次いで言葉が出せなかった。
その緋華を、顔を伏せていた男が見上げる。許しも無く顔を上げ、緋華を見た。
――強く見上げる。乱れた髪の合間から、汚れた顔が笑っている。だが。
その揺らがない瞳。黒々と光を放つような、夜の色。
視線が絡まる。戦の前の夜、桜紅葉の桜花での光景が甦る。どこかで、やはりと思った。だけど、あるはずのないことだった。緋華は息を呑んで唖然として尋ねた。
「……どうしてここに」
落ちた言葉の意味合いは、先刻と大差ない。だが、込めた意味が違った。
「この辺りの地理に多少詳しいから、何か助けになれないかと思って」
「土地の人間か」
「そういうことだと思っていただければ。ここにくる途中に、飛田の軍がいる場所も見つけた。多分、鉢合わせしないで城まで案内できると思う」
「信用できるわけがない」
「突然ここにいる俺は怪しい?」
彼もまた、先刻と同じようなことを口にした。だけど緋華にだけ分かる、込められた意味。
――怪しいなんて、当然だ、そんなこと。
桜花にいたときだって十分怪しかった。本来ならばあの時、見逃すべきではなかったのだ。
ただあの時は、戦を前に控えてはいても、そのさなかではなかった。暗殺を狙ってきた者だとしても、斥候だとしても、緋華に手を出さなかった。まだ、夜見た夢だと忘れることもできる状況だった。
だけど、今はできない。唐突に桜花に現れた男が、戦の最中、唐突に神宮の陣の前に現れるのは、見逃せる事態ではない。大勢の人が見守る中、血と泥に彩られた陽の明かりの元では、夢幻ではすまされない。
男は桜花で見た時は帯刀していたのに、今は戦に追われ逃げてきた民の姿をしている。明らかな変装が、何を意図するのか。
「信用に足る証拠は?」
「何も」
平然と言い切った。男は武器ひとつ持たない。捕らえられて、疑われれば殺されるのは分かっていたはずだ。それでも、緋華に注進しようと出てきた。
それだけで信用に足ることなのかもしれない。けれど緋華を、神宮という大きなものを騙そうとするのなら、それくらいの賭けでも軽くはないものだ。
緋華が応えられずにいると、支月が横から言う。
「斥候ならば間に合っている。先に道を調べさせているから、戦に関わりのないものは下がっておれ」
本当に土地の者だと思ったのだろうか。巻き込まないようにと言う配慮と、信用できないと言う意志が両方覗いている。支月が正しい。
「――支月」
でも、緋華は未だ逡巡する。支月は男を見ていた目を、驚きを持って緋華に向けた。
「……緋華様」
「やはり、おかしいかな」
「率直な意見を申し上げれば、大変疑わしいです。地理に詳しいものはこの軍の中にも多いですし、長くないとはいえ支月もこの土地におりました。まったく知らないわけでもない。このような者頼りたくなければ、いくらでも道はあります」
「でも、飛田の軍の位置を知っていると」
それには、木崎が言葉を挟んだ。
「先に調べるために、
「いつ出した」
緋華に切り替えされ、木崎は言葉を詰まらせた。
状況を見るために先に走らせた忍びは、まだ帰ってこない。来るはずの報告が来ない。――見つかって討たれたかもしれない。
「この者が飛田の軍を見た場所からすでに動いた可能性もあります」
「待ち伏せのつもりなら、留まっているかもしれない」
緋華の言葉に、木崎は再び言葉を止めた。緋華の頑固さを知っている支月が、困ったように言う。
「緋華様。あなたはどうなされたいのですか」
今度は、緋華が言葉に詰まってしまった。支月や木崎に尋ねておいて、彼らの言葉を否定するのは、自分の頭が片付いていないからで、自信がないからだ。
簡単に信用してはいけないと、心の中で声が聞こえている。
――それはつまり、信用したいのだ、わたしは。
あの桜花の夜の、彼の言葉を。でも、確証が持てない。自分だけのことではすまされない、軍を連れて間違った道には行けないから、動けない。
支月は妙に思っているだろう。緋華が、こんなに迷うのを。
「このまま進んでも、敵の真ん中に出ないという証左はありませんね。とりあえず、問答を続けるよりは、一刻も早く先へ進むほうが有益です」
支月は、迷う緋華の意を汲んでそう言った。碧輝のことがなければ、彼は折れなかったかもしれない。その言葉に背を押されて、緋華は男に言う。
「
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