6話 兄のような

 束の間、記憶が途絶えた。

 どさりと音が聞こえて、現実に引き戻される。馬上に碧輝の姿が見えず、木崎と支月が揃って碧輝の名を呼んだ。


 知らず息を詰めていた緋華は、声を出せなかった。息を吸おうとしたが、うまくできない。喉が詰まる。目眩がする。

 そんな、まさか。思いはそればかりを巡る。あり得ないことなのに。

 揺れる視界の中、地面に倒れている人がいる。


「木崎殿、気がつかなかったのですか!」

「平然としておられたから、羽織の血も返り血だろうと……!」

 支月と木崎が大声を上げながら、慌てて馬を下りた。地面に横たわる人の元へ駆け寄る。傍らに跪き、そのまま沈黙した。

 おびただしい血が流れて、地面に染みを広げていく。駄目だ、そんなに血が失われては。流れたものを、元に戻すことは出来ないのに。駄目だ。

 ――嘘だ。

 あんなに血が流れるのなら、簡単な傷じゃない。

 そんなの、嘘だ。


「碧輝」

 自分の声が遠くに聞こえた。遠い世界のことのようだった。けれど、鎧の重さがのしかかる。現実を訴えてきている。

 夢ではない。

「どうした」

 言葉をうながす。それは、否定を求めて。

 返る声はない。


 かわりに、碧輝の傍にかがんで、傷の様子を見ていた木崎が振り返る。

「……もう」

 緋華を見て、木崎はそれだけ言うのが精一杯のようだった。だけど、それ以上に何が必要だろう。


 そんなわけがない。嫌な考えを振り切るように、緋華は馬をおりた。数歩近づいて、だけど傍に寄れない。

 触れられない。触れたら現実が迫ってくるから、恐い。血の海の向こうにいけない。

 立ち尽くしたまま、なす術も無くただ見下ろす。横たわる碧輝は、相変わらずに穏やかな顔をして、眠っているかのようだった。

「……緋華様」

 支月の声が聞こえる。気がついたら彼がそばにいた。周囲の皆の目が、緋華と碧輝を見ているのが分かる。まるで他人事のように、それが分かった。

「あなたに会うまではと、気を張っておられたのでしょう……」

 認める言葉だ。それは。


「嘘だ、そんなの」

 ――嫌だ。嫌だ嫌だ、こんなのは。認められない。認めない。こんなこと。

 認めたら立っていられない。

 ――死なないって、言ったくせに。

 自分で思って、「死」を意識して、ぞわりと怖気に震えた。しびれたようになっていた心に、その事実がしみこんでくる。

「碧輝が死ぬわけない。死なないって、言った」

 声が震える。唇を引き結び、涙を懸命にこらえる。

 ――だけど、戦場では何の約束も確かではないことを、緋華は知っている。


「緋華様」

 再度、支月が名を呼ぶ。心配に溢れた声だ。動揺を見せる緋華を責めない。

 緋華は歯を食いしばり、両手を握り締めて、立ち尽くしていた。体が震える。

 挫けるな。

 夏の戦で、たくさんの兵が死んだ。それまでだって戦のたびに誰かが命を落とした。

 父と母がそうだったように、皆がそうだったように、碧輝も例外ではなかったというだけだ。皆が刀を振りかざし、敵を殺し、緋華だっていつかそうなるかもしれない。そういう場所だ、ここは。分かっていたはずだ。だから置いていきたくなかったのに。

 だけど、だからといって、あってはならなかった。あってはならないことだ、そんなこと。


 泣きたい。許せない。飛田も碧輝も自分も!

 歯を食いしばる。手を握り締めて、目に力を込めて地面を睨みつける。

 ――駄目だ、泣くな。

 気を抜くと、嗚咽がもれそうだ。泣き叫びそうだった。


 挫けるな。己を叱咤しながら、大きく息を吸う。

「全軍、取り急ぎ鴻山の城へ向かう!」

 別の言葉にして、口から強く押し出した。

 ――泣くな。ここで、崩れたら終わってしまう。今は決して気を抜いていい状況じゃない。

「……緋華様」

 毅然と立っていなければならない。そんなことばかり先に立つ。

「構うな。大丈夫だから」

 支月に言う声が、喘ぐようだった。


 息ができない。喉が詰まって、うまく息を吸えない。

 鎧の重さに、現実の重さに耐えかねて、緋華はその場に崩れ落ちていた。




 気がつくと緋華は、見慣れた木の床を小走りに進んでいた。

 小さな足がぱたぱたと音を立てる。後ろを侍女が何かを言いながら追いかけてくるが、気にしない。

 桜花城の濡れ縁は、春の明るい日差しに照らされている。暖かな風が庭木をゆらしていた。

 たどりついたのは、謁見のための広間ではなく、庭に面した小さな居室だ。

 開け放された襖の陰からこっそり見ると、こちらに背を向けて座る少年と、上座にくつろいだ父の姿があった。


「姫様、お邪魔をなさってはいけません」

 追いついてきた侍女が小さな声で言う。それに気づいた父が、覗き込む緋華を見つけて笑った。

「ちょうど良かった。こっちにおいで」

 手招く父に、緋華は顔を輝かせて部屋の中に足を踏み入れる。侍女が困惑ともあきれともつかない溜息をついたのが聞こえたけれど、構わずに駆けた。

 父のそばに駆け寄って座ると、明るい色の瞳を和ませて、緋華の頭をなでてくれた。


「緋華。今日から桜花に来た碧輝だ。遠野家の新しい当主で、しばらく実務は家の者に任せ、こちらで小姓をしながら勉学することになった。緋華も何かと世話になるだろうから、覚えておけ」

 言われて、下座にいた少年を見る。明るい日向を背にしている少年は、緋華よりもだいぶ年上に見えた。膝の上で拳を握り、硬い表情で座っている。

 少年は緋華を見ずに、木の床に手をついて頭を下げた。

「遠野碧輝と申します。お見知りおきください」

 うららかな日和には不似合いの、強張った声だった。

 緋華は、うん、と短く応える。よろしく、と言ってから、明るい声で言った。


「ねえ、碧輝は、碁は得意?」

 突然の言葉に、少し間があった。

「はい、多少は心得ております」

 戸惑いを乗せた声で、平伏したまま少年が応える。碧輝の返答に、父は大きな声をあげた。

「あっ駄目だぞ。碧輝は切れ者だって話だ。味方にするのはずるい」

「父上がずるいって言うなんて、ずるい。全然手加減してくれないくせに。わたし覚えたばかりなのに」

 緋華は頬を膨らませて父を見上げる。

「母上に助けてもらいたいけど、母上は父上の倍強いから、弱い者いじめはしないんだって。だから他の人に助けてもらえって言われたんだもの。上手に人の助けを借りる方法も学びなさいって」

 娘に手加減なしの父を諌めからかう母の言葉に、父も子供のようにむくれて見せた。すねてしまった父を放って緋華は立ち上がり、ぱたぱたと小走りに碧輝の側に寄って、座り込む。


 頭を下げたままの少年を覗き込むようにして、だからね、と言う。

「あのね、だから、わたしを助けてほしいの」

 膝が触れそうなほど間近に来た緋華に驚いたのか、碧輝は顔を上げた。困惑をのせた瞳と目があった。真っ直ぐに見返す緋華にたじろいだ様子で、父を見る。けれど父は、脇息に肘を乗せて頬杖をついてすねたまま、勝手にしろと言うように手をひらひらさせた。

 碧輝の視線が返ってくる。戸惑った声で言った。

「微力ながら、姫のお力になれるのでしたら」

 やったあ、と緋華が笑うと、碧輝はつられたように笑った。


 その碧輝の後ろ、春の水色の空がみるみると陰りだした。墨を垂らしたように、暗く、黒く染まって行く。部屋に満ちていた明るい空気が不吉に侵されていく。

 弾んでいた心を押しつぶされたようで、得体の知れない恐怖に、緋華は思わず立ち上がる。

 途端に、見慣れた光景が消えた。木の床も、梁も、花の描かれた襖も、庭の木も。住み慣れた城が消え失せていた。何もかも、闇に塗りつぶされた。


 気がつくと緋華は鎧を着ていた。

 父が生きていた頃、碧輝と出会った頃の幼かった姿は元に戻り、側に座っていた碧輝もまた、鎧に陣羽織を纏った大人の男になっていた。

 まさかという思いに突き動かされて、振り返る。上座にいたはずの、父の姿も消えていた。あんなに笑って、すねて、生き生きとしていた人が、いない。

 血の気が引いた。体が凍りつく。

「父上……!」

 返る声はない。何もかもが暗闇に飲み込まれた。


 そして闇の中、立ちつくす緋華の元へ、騎馬隊が進んでくる。轟音をあげて目の前を駆けていく。いつの間にか現れた兵たちを踏み荒らして。

 間近に入り乱れる赤と黒の鎧。ひるがえる赤と黒の旗。すぐそばで交わされる剣戟。そして視界を染める血煙。人々の怒号、悲鳴。


 緋華は、茫然と立ち尽くしていた。体も頭も痺れたようになって、少しも動かない。

 人々は殺し合い、あたりには死体の山が築かれる。

 気がつけば動くものは何もなくなっていた。

 流れ出た血が大地に海を作っている。折れた旗が、墓標のように時々突き出ていて、哀れを誘った。

 何も残さない、虚しいだけの、まるで地獄。


「碧輝……!」

 助けを求めて名を呼ぶ。

 けれど座ったままの碧輝は応えない。聡明で優しい瞳を和ませて、緋華を見た。その唇の端から血が滴り落ちる。


 ――嘘だ。

 喉の奥がひきつる。息ができない。

 緋華の目の前で、力を失った碧輝の体が傾く。どさりと音を立てて、闇の中に倒れた。

 いつもの穏やかな顔のまま、目を閉ざしている。その唇から血がこぼれてさえいなければ、ただ眠っているかのようだった。

 碧輝の周りに、赤い染みが広がっていく。

 ――嘘だ。


「碧輝!」

 叫んで、血だまりの中に膝をつく。揺さぶって、起こさなければと思った。肩に触れて、けれどそれ以上何もできなかった。

 苦痛の見えない貌に、息が詰まる。自分がどれだけ傷ついていても、いつも微笑みとともにそばにいてくれた。

 何も苦しくないなんて、そんなわけがないのに。


 震える唇を噛みしめる。

 いつかこんな日が来るのは、分かっていたはずだ。でも、来るはずがないとも思っていた。変わらずそばにいてほしいと、ずっとそばにいてほしいと願っていた。

 起こさなければと思う。だけど、目を覚まさないことを確かめるのが怖い。

 それでも願わずにいられない。お願いだから、どうか。

「目を開けて……」

 碧輝の肩に額を押し当てて、ただ切願する。

 助けると、言ってくれたのに。いなくなるなんて、そんなの、ずるい。

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