5話 臣の使命

 頭上を鏑矢かぶらやの音が響き渡る中、神宮の殿軍は、飛田副将率いる鋼牙衆を死に物狂いで足止めしていた。


「またお会いしましたね。夏の終わり以来ですか」

 飛田副将は対峙する碧輝に対して、気構えすら見せずに言った。からかうように続ける。

「槍働きは、軍師殿の得意とは違うのでは」

「無論だ」

 当代随一の武将に言われるまでもない。碧輝は淡々と返した。

 陣中にて謀を巡らす。大事が起こるのを未然に防ぐ。華々しい活躍はなくても。それが役目だ。

 刀を抜いて立ち向かったところで、当代一を謳われるこの猛将にかなうはずもない。先の戦では、盾になってくれた者がいたが、今はそんなもの望めない。


「だが、我が姫をお守するのが使命だ」

 碧輝が桜花へ登城したのは十六の頃。緋華がまだ六つの頃だった。

 父を亡くし、遠野家中の争いに疲れた彼を呼び寄せてくれた神宮の先代と、途方にくれていた自分に無邪気に笑った少女。あまりにも無防備で、真っ直ぐ自分に向けられた全開の笑顔に、肩の力が抜けた。打算のない好意と小さな手がほほえましく、その手が拠り所だった。


 それからずっと、傍近くに仕えきた。

 桜花の春の佳景の、暖かな神宮の人の心根を表したようなあの場所で、元気に動き回り、屈託なく笑っていた少女を守る。それが役目だ。

 危険などない場所で、傷つくことなく、心のままに生きていてほしかった。人々に守られ、平穏で安らかな日々に生きていけるはずだった。伸びやかに、苦しむことなく笑っていてほしかった。なのに、戦場に立たせてしまった。

 だけど、どれだけ傷ついても、この地に立ち続けることを彼女が選ぶのなら。それを助ける。

 彼女の歩む道が、少しでも平らかであるように。身命を賭してでも。


「日下部殿の鋼牙衆は頑強だろうが、神宮の鷲見しゅみ隊も勇猛さでは劣らない」

 飛田が背後にしているのは、急な勾配の山だ。崖と言っても過言はない。

 その山の上から、陣太鼓の音が鳴り響く。早く強く。次いで、山上の人々が声高に叫ぶ、地を揺るがすような声。己を叱咤して、気合を入れ鼓舞するための声。

 そして響き渡る騎馬の爪音つまおと。落雷のような轟音が、飛田の背後を駆け下りてくる。その響きは連峰に木霊して、さらに大きく鳴り渡った。

 馬が足をからませ、踏み外し、転がり落ちる者もある。だが、降りてくる。坂を下る勢いのままに、飛田の背後を一丸となって突いた。そのままの勢いで、飛田の陣を二分するように駆け抜けてくる。


「それは殊勝な事で」

 背後からのどれほどの物音にも、びくりともせず、飛田の副将は笑う。


 ――飛田の副将は、黒鉄くろがねと評されることがある。ただ、黒鉄と。

 黒を身にまとい、鉄の鎧を身につけているからかもしれない。だが、それだけではない。

 存在が礎のようにそこにある。盾でもない刃でもない。野生の鋭い牙でもなく、ゆるく笑う顔は、どちらかというと鈍いくらいの感がある。

 決して、生半には動かせない、ただ在るだけで威圧を放つ冷たい鉄だ。纏う空気は柔軟だが、黒く影のように立ちふさがる。

 鳴り響く音を、妖に怯える兵の悲鳴を、混乱の喚声かんせいを背景に従え、彼は動じない。

 飛田晟青の腹心と言われる彼は、奇襲に怯む飛田の陣中にある主を助けに走る様子もない。主の危機にも、僅かの動揺も見せない。そのために碧輝を見逃す気はないようだった。


 ――余裕を湛えたその姿に、違和感が募る。

 予測しない背後を突かれれば、誰だって動揺するものだ。しかも飛田晟青は、戦場に慣れていないはずだ。飛田の臣が補うだろうが、自分たちの上に立つ者が動揺するのを見て、兵がきちんと従うものか。

 ――だが、あちらにいるのは、東の鬼。

 暗愚と言われ続けてきた、それに違和感を抱いていたのは、誰よりも碧輝自身だった。

「この程度のことで道を阻まれるようなら、晟青も銀夜も、今日この日まで生き延びてはいないのですよ」

 主を呼び捨てにして、飛田の乳兄弟は、精悍な顔に笑みを刷いたまま言った。余裕に溢れているが、ふてぶてしくはない。朗らかとも言える笑みだ。この戦場のさなかにおいて。

 ――彼は、彼らは、まさか最初から。

 狙いは緋華ではなく。

「こちらにも下知がある。何が何でも道を開けてもらいますよ」



 飛田晟青のいた飛田の本陣と、副将がいた別働隊を抑えるために残った兵は、軍の大半だった。緋華と共に来た兵はせいぜい百というところ、万が一伏兵があれば、危うい数だ。

 緋華たちは、山間を流れる渓流に沿って移動していた。


 城の兵が駆けつけても、山を迂回している以上、簡単に合流できるとは限らなかった。彼らが山上から様子を見て対応してくれれば良いが、闇雲に突き進んでも始まらない。

 飛田の兵が追ってくる様子も無いため、碧輝たちと合流できるよう、一度足を止めた。これで少し待ってもどうにもならないのなら、山中に入って、鴻山の城に行くしかない。


 しかし、しばらくも待たないうちに、蹄の音が聞こえてきた。陽は中天にあり、戦いはじめてから、まだ数刻しか経っていない。

 顔を向けると、一丸になった軍が見える。桜の紋の旗指物。目に鮮やかな赤い鎧を着た隊。飛田の黒の鎧を着た軍とは間違えようもない。神宮の兵だ。

 後ろに追っ手もないようなのを見ると、蹴散らせたのだろうか。飛田に思惑があり、退いたのだろうか。

 だが今は、何でも良かった。ともかく、今は。

 神宮の軍はだいぶ数が減っていた。もとの軍と、山上の別働隊を入れても、減ってしまっている。

 その陣頭、山上の鷲見隊を率いていた木崎須墨すすむと並んで、碧輝の姿が見える。


「碧輝、木崎、無事か!」

 彼らが緋華の前で足を止める前に声をかけた。

 緋華の声に碧輝が笑みで応える。いつもとなんら変わらない、やわらかな笑みだった。ほっとして、緋華もそれに笑みを返した。

「妖は!?」

「なんとか振り切りました。御屋形も、ご無事で何よりです」

 間近まで来て、木崎が言った。うん、と緋華が頷いたところに、駆け寄ってきた支月が口早に聞いた。

「飛田は」

「退きました。それは、実に鮮やかに素早く。妖を振り切れたのも、あの飛田が清め祓いを行ったからでして」

「戦地を清めて退いた? どういうことですか、それは。先の戦では妖も人も放って逃げたというのに。しかもあの状況をさっさとひとまとめにして、深追いせずに退くほどの判断力が、飛田にあると」

「それは、分かりませんが。大人しく領地に引き上げたようには見えませんでしたね」

 なるほど、と支月がつぶやく。

「伏兵の心配がある。一刻も早く、鴻山に行きましょう。援軍と合流できなくても」

 緋華は頷き、碧輝を見たまま言った。

「せめて妖が現われぬよう、場を清める。そのくらいの時はあるだろう」

 妖を祓わなければならない。だが、音をたてる鏑矢は、敵に居場所を教えることになる。大地を踏みしめ、清め舞いを行う余裕はなくとも、念を込めて清め歌を謡い、少しでも危険を減らしたい。


 碧輝は何も応えない。支月の問いは、すべて木崎が受け答えた。本来ならば碧輝が言うべきところだ。そして彼ならば、飛田が退いた事に、何らかの見解があるはずじゃないのか。

「――碧輝?」

 どうして、何も言わない。


 皆の目が、碧輝に向かう。呼びかけた緋華の声に、碧輝は再び笑んだ。いつも緋華を安心させてくれた笑みだ。いつも変わらずそばにあり、緋華の道は正しいのだと証明し続けてくれた。すべての不安を、ごまかし続けてくれた。


 そして滲むような笑みを浮かべたまま、緋華の視界の中で、碧輝の姿がかしいだ。

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