2話 艶然と鬼は笑う
※
飛田
「神宮の姫を妻にする」
楽しげな声は朗々と広間に響いた。
東の飛田家居城、
上段の間にて、青松の描かれた襖を背に、その部屋に少しも劣らない傲岸な主は、楽しげに笑っている。脇息にもたれて、平伏する家臣たちの頭を見て、彼らの反応を待っている。
けれど彼が笑みをうかべているのは、僅かの間だけだと言うことを、集った者たちは知っていた。
誰もが口を噤み、主の気を逆撫でて必要以上に物事を荒立てずに済むよう、必死で思考を巡らせる。
神宮の当主を捕えて戦を終え、白蛇に凱旋した。あとは神宮を殺せば、何もかも飛田のものになる。そのはずだと言うのに。
何故彼がそんなことを言い出したのか、いつもに増して分からない。
そもそも晟青は、神宮の姫を捕えておきながら、いまだ一度も会っていない。何を気に入ったとも思えないし、何の思惑があるのかも、ますます分からない。
「納得がゆきませぬ」
美貌の主の顔を見ないように、木の床に額をつけたままで、臣の一人が声を絞る。
声を上げたのは、飛田の臣下筆頭、
飛田晟青の亡くなった母の兄であり、飛田晟青の伯父にあたる。形ばかりの家老だった。
その立場にかじり付いてきただけの彼でも、我慢できないことであった。――その彼だからこそ。
「どうか、御屋形様の御心の片鱗だけでも、我々にお話しくださいませぬか。きっと深いお考えのことだとは存じますが、愚かな臣では、御屋形様の深い御心をお察し申すことができませぬゆえ」
それを耳にした彼の主君は、笑みをおさめてしまう。わずか、紅の唇にだけ薄く名残をとどめて。
「得心がゆかぬ?」
ゆるやかな声が、広々とした部屋の中、人々の頭上を撫でる。場に控えた者たちが目に見えて萎縮した。
伸びやかな声は、苛立ちを滲ませていないからこそ、戦慄すら感じさせるほどに、美しく強かった。
ゆったりと脇息に肘を乗せ、その上に頬杖をついた彼は、楽しげに人々を見ている。
髷を結わずに、後ろへ高く結い上げただけの黒々とした髪が、肩の上に落ちて流れをつくっている。悠々と上座に君臨する彼は、頬にかかる髪を長い指で物憂げにかき上げた。
長い睫毛をほんの少し伏せぎみにして、黒曜の瞳で下座を見ている。下界の人々を眺めていた。
「これは異なことを言う。俺はお前たちが諸手を上げて喜んでくれるものと思っていたのだがなあ」
その口調がいかに楽しげだからとて、家臣たちの心にわずかの猶予も与えてくれない。気分を害していないように見えても、それが決して、彼の気が和やかだという証にはならないことを知っていた。
そして主へ放った不注意なただの一言で命を奪われた者も数え切れない。その最初の犠牲者は、飛田の鬼にとって、声をあげた三島にとっても、近しい人であった。
今、主君はその前兆を見せている。
「されど、殿」
それでも三島は、気を奮い起こして続けようとした。やはりどこまで朽ちていても彼が臣だからか。身内だからか。
それとも上段の間のこの一段の差が、遥か頭上にいるような錯覚を覚えさせる、目前の人のせいなのだろうか。孤高の王座から人々を見下ろし踏みにじるのが何よりも似合う、自らの主のせいなのだろうか。
民には暗愚だと罵られ、残虐だと畏怖される彼は、けれど実際目にしてみると思い知らされる。言葉や噂だけで彼を知れるものではない。
尊大な彼は、こうして身近にいる者を平伏させずにいられない空気をまとっている。
「御屋形様、それはあまりにも、急なことで……」
「一刻も早く妻を娶れと、しつこく言い続けてきたのはお前たちではなかったか」
「しかし、御屋形様」
次いで声をあげたのは、三島ではなかった。その隣に座していた家老の堀内が、低く声を出す。武断の将の抑えられた声に、誰もが息をのんだ。
「今まで室を迎えようとなさらなかったのに、何故今になって、神宮などと」
病に倒れた飛田の先代は、自分の命が尽きる前に、息子の元服を急がせた。
烏帽子親として家臣の堀内を選び、彼の娘を娶わせる約があった。堀内はその話を信じていたはずで、娘もそのつもりでいたはずだ。
先代が亡くなり、晟青が跡目を継いで、その時に起こったいざこざもおさまった頃、堀内は彼にその話を切り出した。
だが幼い主の返答は、信じられるものではなかった。
「それは親父とお前が結んだ誓約だろう。俺と交わしたものじゃない。そんなもので俺を縛ろうというのか」
平然と言ったのだ、彼は。
例え口約束でも、違えれば、謀反の言い分を与えてしまうことにもなりかねない、この時代において。平然と。
「お前の娘のことか。つまらない話を持ち出すな」
そして今、壇上の主は蛾眉をひそめて堀内を見た。
「以前言わなかったか、堀内。お前の娘が、
それは先代の死を看取った側室である。彼女は、先代が亡くなった後に落飾して、寿香院を名乗っている。
先代は、身分を持たない彼女を、家臣の反対を押し切り側室とした。その理由はあまり知られないが、一般的に言われるのが、彼女の美貌であった。
「俺よりも醜い妻はいらぬ」
理由にもならない断りだ。だが、およそ男とも人とも思えない天上人のような美貌に、華の笑みを浮かべて彼は言う。
「そうでなければ、俺を退屈させない妻を連れてこい」
自分が妻を娶らなかったのは、お前が悪いのだとでも言うような言葉だ。皮肉と、わがままのような言葉に、堀内は黙り込んだ。
先代の遺志をも、盟約をも破り捨てて、愚にもつかない理由を述べて、敵を妻に迎えると譲らない主に、張り詰めた緊張が満ちる。
そこに、当主の言を継いだのが、傍らの副将軍である。
「神宮の姫君は、可愛らしいお方ですし。男の身なりをして戦の陣頭に立ち、健気にも刀を振り回して戦っていらっしゃるお方ですから、そこらの姫君よりもよほど変わっていらっしゃる。少なくとも、あなた方を相手にしているよりは、退屈せずに済むのではないでしょうかねえ」
家臣の誰もが理解に苦しみ、けれど反論をするのも恐ろしい。
彼らは一体何を考えているのか。分からないのは今に始まったことではないが、これ以上分からなかったことなど、ないような気がしている。
そういうことではないのだと言葉にできない。問題は掏り替えられている。そして、どうしてもそれはならないのだと、主君を納得させる、確たる理由を差し出せない。
なぜそんなことを言いだしたのか、真意がわからない。
副将を満足げに見てから、晟青は再び家臣たちを見回した。
「春には、桜花で婚礼を行う。それまで神宮の姫は白蛇に留め置く。先頃の戦の事後処理にはその方が面倒がないだろう。お前たちと神宮でやっておけ」
また唐突な、思いもよらない言葉。誰も何も口にはしないものの、広間にただ疑問が満ちる。
三島は再度、言葉を絞り出した。
「婚礼は、せめて、ここで」
応える声はない。さきほどのように遮る声もなく、それがまた恐ろしかった。
少しの逡巡の後、不機嫌そうな声が降ってくる。
「神宮は、祝い事は春の桜花で行うと聞いた」
「そのようですが、しかし婚礼は、せめて、ここで」
神宮を殺さないのならば。神宮の姫を妻にして、神宮が破れたことを国に知らしめるには、この飛田の本拠で婚儀をあげねばならない。
――何より、殺されたいのだろうか、神宮の臣に。
彼らの主を捕え、無理矢理にも妻にして、組み敷いて、それを神宮の家臣たちが許すと思っているのだろうか。この鬼を主に迎えることに、大人しく従うと思っているのだろうか。
「白蛇の雪は見飽きた。春の桜花を見てみたい。飛田の者が今まで望めなかったことだ、この機に訪れたいと思って何が悪い?」
どういうつもりなのか、本当にただ言葉のままの我儘なのか、わからない。
顔を伏せたまま三島は言葉を継げない。堀内は頭を絞って、思考をひねり出した。
無理矢理にも、目の前の人たちのしていることを、自分なりに納得できる理由を導き出して。主を見て言う。
「もしや、この期に神宮を油断させ、掌握した後で、かの姫を殺すおつもりですか」
だから婚礼と偽って桜花へ行き、神宮を殺し、制圧するつもりなのかと。
けれども飛田の当主は、きょとんとした無垢な目を家臣に向けた。
「何を言いたいのか分からない」
「ですが、神宮と、婚姻による同盟などと……」
「なんだ、不服か」
その通りだなとと言えるはずもない。口を閉ざした堀内に、晟青は続ける。
「俺は面倒なことが嫌いでなあ。
「御意に」
副将はうやうやしく頭を下げる。
「皇家は滅び、血をひくのは我々飛田と神宮の両家のみ。
皇家を滅ぼしたのはそもそも飛田であるというのに。
晟青は満足げにうなづいて、広間に集まった家臣たちを見遣る。少しも納得していないのに気づいて、物憂げな表情になった。
まったく、と上座の美しい人は、黒髪を揺らして頬杖した首を傾ける。
「神宮の桜姫が健気にも髪を結い上げ、刀を腰に差して陣頭に立てば、人の涙を誘うというのにな。俺は損をしているような気がするなあ」
心底口惜しそうに、愚かなことを口にする。
政など放棄しているくせに、妻にするといった神宮の姫をあからさまにさげすみ、目の前の家臣たちの無能さを嘆く。
通例など無視して無茶を言いたて、困惑と苛立ちを与えていることなど、まるで気づいていない。気づこうともしない。自分の所行など、棚にあげて。
――そう、己のしてきたことを分かっていないかのような、言葉。
あまりに愚かで、無茶苦茶な人、なのだけれども。
例え人々の心に叛意が目覚めていようとも、それを行動に起こすにはわずか足りない。
飛田家は、臣に守られて豪奢な城に座る。だが、そこはもはや堅固ではない。
壁は崩れ、濠の水はなくなり、鼠が柱をかじっている。まるでそんな状況にあった。
崩れゆく城の中、絢爛な衣装で、美しい鬼は笑っている。
行動を起こすには、あと一つたりない。わずか背を押すものがたりない。兵を率いて、表だって反旗を掲げるにはまだ恐怖が勝る。
――そんな、きわどい時期だった。
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