8話 ありし日の決断

 両親が戦に出かけるのを見送った時は、恐怖も不安もなかった。


 父と母が何をしに行くのか、どれほど危険か知ってはいても、分かっていなかったのだ。父が出かけて大敗したこともないし、傷を負っても、緋華の前では苦しむ姿を見せなかった。

 だから当たり前のように、両親は帰ってくるのだと思っていた。そして彼らはいつも、生きて帰ったことを実感するように、必ず緋華を抱きしめて笑った。

 だからそのときも、同じはずだったのに。


 まだ緑も芽吹かない季節の、暗く寂しい空気の中。押し黙り、沈痛な面持ちの人々が歩いてくる。急ごしらえの、旗指物で作られた担架がふたつ。緋華の前に横たえられる。

 いつも笑っていた人は、冷たい骸になって帰ってきた。


 ――父はまた、何の遊びをしているのだろうと思った。

 まわりの皆を巻き込んで、悲しい顔をさせて。きっと、緋華が驚くのを楽しみにして、心の中ではいたずら気に笑っているのだろうと。

 なのに何故、いつも父の遊びをたしなめる母は、黙っているのだろうと。同じように、悪ふざけをして。


 緋華の前に膝をついた臣が何かを言っている。父がいかにして討たれたか、母がいかにして死んだか。いかに彼らが戦ったか。それを。

 緋華はただ黙って聞いていた。目を見開いて、父と母をひたすら見ていた。

 笑わない、話さない。動かない。そんなわけがないのに。今にも吹き出して、笑って、緋華をからかうはずなのに。


 ――どうして、黙ってるの。どうして、みんな、おかしなことを言ってるの。

 真っ暗な心の中に、怒りがわいた。

 誰が、どうして、こんなことをやったのか。

 衝動が突き上げる。歯を噛みしめ、踵を返した。横たわる両親に背を向け、周りに集っていた人を押しのけた。足を踏みならして、その場を離れる。


「姫様、どちらへ!」

 唐突な緋華の行動に驚き慌て、人々が追ってくる足音がする。口々に宥めながらついてくるのを無視して、緋華は謁見の間の、上座の後ろに祀られていた剣をひっつかむ。

 踵を返して、また足音も高く謁見の間を出て、濡れ縁を突き進む。


「どこへ行かれるのです」

 後ろからの声に、言い捨てる。

「厩」

「その刀をもってどこへ」

「白蛇へ行く」

「姫君おひとりで仇討ちなど……!」


「仇討ちじゃない!」

 怒鳴り返す。悲しみが、怒りとなって緋華を突き動かした。

「白蛇に行って、飛田の前で、緋華の首を切り落としてやる。それで戦が終わるんだろう! この剣もそのまま飛田家にくれてやる!」


 緋華の手の、十束の剣。神宮家のもつ至宝だった。

 神宮の初代が、その父である帝を、血族である皇家を、さらに初代自身を狙って母の一族を滅ぼされた時、たった一つ手元に残ったものだった。帝の庶子であった神宮初代のために、帝が、身の証として母に預けていたもの。

 「神居の剣」もしくは「神威の剣」と呼ばれる宝刀。禍つ祓いの神具だった。


 神宮家が、神宮家としてある証。

 初代が飛田家にすべてを奪われ、追われ、逃げ続けている間にも、決して手放さなかったという剣。その剣の明かす血の重さを、意地のように背負い続けた。

 これが「神居」ならば、俺は神の子だ。それが住むならここは神の宮だなと、初代が冗談めかして名乗った名が「神宮」だ。


「緋華姫!」

 人の群れの中から、叫ぶ声が耳を打った。

 碧輝が駆け寄ってきて、緋華に追いついた。そのまま追い越して立ちふさがる。

 けれど碧輝の目を見られない。緋華は前を見たまま、腹の底から言葉を吐き出す。


「どいて」

 父と母を奪った戦乱を終わらせる。こんなもの、血の証など、飛田に叩きつけて終わらせる。

「どきません」

「どいて!」

 緋華は碧輝を押しのけようとした。でも、碧輝はどいてくれなかった。勢いを削がれたら、進めないのに!

 十も年上の彼を力任せにどかせられるはずもなく、緋華は憤慨してその場を踏み鳴らした。


「どうしてなの。どうして、こんな、どうして……!」

 感情が吹き荒れる。何を叫んでいるのか分からない。何が起きているのか、何をしているのか分からない。

「あなたが死んで、神宮がなくなっても、戦乱は終わりません」

 碧輝が、静かな声で言った。

「神宮の臣の誰も、そのまま飛田に降ったりしません。皆が、飛田晟青を己の主として認めないと意味がありません。おそらく、現状からそれはないでしょう」


 皇家の正統は飛田晟青ひとりになる。だが臣はそれを認めて従うだろうか。

 理詰めの言葉に、緋華は碧輝の顔を見上げた。睨みつける。

 いつも穏やかな碧輝は、感情の見えない瞳で、緋華を見返した。ただ静かに緋華の怒りを受けて、ゆっくりと言った。

「姫様、お父上が悲しみます」

 言われるまでもなく。緋華が家のために命を落とせば、悲しむだろう。

 いつでも間違えない言葉に、また怒りがこみ上げる。恩義ある父のことを盾にして、自分の思いなど出さない碧輝に。


 遠巻きに見守っていた人々が、立ち尽くした緋華から半ば強引に剣を取り上げた。

 また無茶をやる前にと、緋華を自室に押し込める。碧輝を見張りのように残して、皆が慌ただしく去っていく。


 暗く静かな部屋で黙って座っていると、怒りと混乱がゆっくりと引いていった。何が起きたのか、じわじわと心の真奥にしみこんでくる。襲ってきたのは、底知れない寂しさと恐怖だった。

 大きなものがなくなってしまった。神宮を支えていた、緋華を守ってくれていたものが、いなくなってしまった。

 この城の柱も、花の描かれた襖も、透かし彫りの欄間もなにも変わらないのに、空っぽだ。冴え冴えとした空気が、隙間を流れていく。


「碧輝」

 声が震える。

「何がおきてるのか、わからない」

 両親が横たわり、動かない姿を見たけれど。生き生きと笑う父の、穏やかな母の、抜け殻のような骸を見たけれど。

「どうしたらいいのか、わからない」

 声にしたら、もう逃げられなかった。

 漠然とした何かのぐちゃぐちゃとした感情が押し寄せてきて、涙がこみあげて止まらなくなった。手を伸ばしてきた碧輝にすがりつく。

 しがみついて、緋華は大声で泣いた。


 葬儀が執り行われた後、何度も臣の間で評議が行われた。

 だが緋華には、何がどのように話し合われているのか分からなかった。ただ慌しく人々が駆け回り、時折争う声がする。

 状況を問いただせる臣がいない。誰も皆気が立っていて、緋華のために説明をしてくれる余裕などなかった。碧輝だけが、緋華の様子を見に来てくれていた。

 けれど、どうなっているのか問う緋華に、彼はいつも微笑むだけだった。いつも答えはくれない。不安にさせたくないからなのか、言いたくないのか、分からない。


 だから緋華は、争う人々を目にするのが嫌でたまらなくて、頻繁に一人で城下へ足を運ぶようになっていた。

 でも、城から逃げても、何も変わらない。

 城下の人々は、貧しいながらに日々懸命に生きている。そして神宮の当主が死んだことに不安を感じていた。神宮の当主が死に、跡継ぎもいない。

 飛田に飲み込まれるかもしれないと考えるのが当然だ。とうとう皇家の血筋がひとつになるのだと。


 その頃にはもう飛田は無茶な圧政を敷くようになっていて、東は混沌と化していた。飛田晟青は恐ろしい、だが妖も恐ろしい。人々は緋華を見て、哀れみと不安の視線を向けた。

 緋華にとっては悲しい父母の死ではあったが、臣にとっても、民にとっても、未来の死なのだ。

 そしてこのまま臣が争えば、神宮の家中で戦になる。


 ――どうすればいいの、これから。

 心が暗闇に覆われたまま、立ち上がれない。

 碧輝が何度目かに顔を見せたのは、そんな折だった。

「どうなってるの?」

 もうこれを問うのも幾度目か。けれど、いつも微笑むだけだった碧輝は、この日は違った。

 ただ静かに、碧輝は言った。


「少し桜花を離れます」

「どうして」

 緋華は驚きに声を上げる。皆が評定でもめているのは知っているが、碧輝が外れる理由がわからない。

「どうして、今、この時期に、碧輝がわたしのそばを離れるの」

「当主を亡くした神宮の隙をついて、飛田が攻めてくるかもしれないから、国の境を固める必要があります。俺もいかないと」

 碧輝の声は、変わらず静かだった。怒りが沸き起こる。


 こんな時に、置いていくくせに、少しも変わらないなんて。

 少しも思ってくれてないように感じる。今、碧輝にまで行かれてしまうのは、嫌なのに!

 それに、帰ってこないかもしれない。父と母のように。恐れで体が震える。それを怒りで押さえ込んだ。黙りこんだ緋華に、碧輝は小さく息を吐いた。


「――緋華様」

 穏やかな声が重く落ちる。

「すぐに、婿取りしてもらわないといけません」

 言われた言葉に緋華も、どうして、とは言わない。

「誰を?」

「まだ、臣の間でもめています。武藤殿か、木崎殿か、中原殿か……」

 神宮の筆頭である重臣たちの名だ。特に彼らは、神宮の初代の頃からこの家に仕える譜代の忠臣だ。だから、彼らの名が挙がるのは当然だった。

「碧輝じゃないの?」

 緋華の問いに、碧輝は少し困った顔をした。

「俺には、後ろ盾がありません」


 神宮の臣の中で、決して地位が低いわけではない。能力もあり、それを認められていた。いつも当主の傍らにあって、彼を助けていた。

 碧輝自身の父が存命であれば、今このときも、もしかしたら碧輝の名前が一番にあがったかもしれない。

 だが神宮の血をもたず、婚姻によって上に立つには、やはり後ろ盾が必要だった。反発しようとする勢力を、意見を、抑えてくれる味方が。

 まだ年若く、たったひとりきりの碧輝には、それがない。かわりに碧輝を今の地位にとどめていたのは、ただ神宮当主の意志だった。その彼がいなくなっては、もはやどうにもならない。


 何より、先に名の上がった三家を退けられるほどの後ろ盾など、この家中にはない。――緋華の意志で、どうにかできる状況でもない。

 だから碧輝は、話し合いの席を離れて戦場に行く。


「それじゃあ、いやだ」

「……緋華様」

「それで、すんなりおさまるの。わたしが誰かと夫婦めおとになれば」

「何より急だから、多少はもめるでしょう。納得のいかない臣も出てきます」

「それじゃ意味がない」

「でも今は他に方法がないんです」

 淡々と言う碧輝の声は静謐で、でも冬枯れの空気のようには冷たくなくて、和やかだ。彼が動じるところなど見たことがない気がする。それがまた、緋華の怒りを煽った。

 碧輝は決して他の者を押しのけない。自我を押し付けない。神宮のために、国を乱さないために。だから、評定を外されても、神宮を守るために戦場に行く。


「わたしが男だったら良かったんだな」

 歯を食いしばる。諦めよりも混乱への呆れよりも、怒りよりも、悔しくて涙が出た。

 これが、神宮の当主がいなくなるという現実。父を亡くした皆の現実だ。悲しむよりも、先を考えなくてはいけない。

 だから緋華も、決断をした。

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