7話 面影
桜花は国の西南に位置して季候も良いが、この時節はやはり風が冷たい。
城を抜けだした緋華は、寝間着の上に羽織った着物の前をかきあわせ、暗い山の木々の中を歩いていた。足元で、朽葉が音を立てる。
秋月の元、
もうすぐ、冬がくる。
緋華は、冬があまり好きではなかった。寂しいのは嫌い、一人なのは嫌いだから。風景も空気も、寂しさを感じさせる冬はあまり好きではない。両親を喪くしてから、それが身にしみるようになった。
立ち止まって、一本の桜の木を見上げる。桜花城をとりまくたくさんの桜の木々の中の、その一つ。取り立ててどうということもない、ただの木だ。
幹にもたれると、木の皮は堅くて冷たい。着ている物を通しても、ひやりとした感覚が伝わってくる。見上げると、暗い影になった葉の隙間から、月明かりと城が見える。
そのまま木の根元に、幹の間におさまるようにして腰をおろした。
――ひとりだ、とつぶやいた少年を思い出す。
もう七年――もうすぐ八年も前になる夜に出会った、少年のことを。この木の下に座っていた。
会いたい、と思った。
折に触れて思い出す。会いたいと思う。夢に見るたび、ここを訪れるたび、その思いだけは強くなる。
あの頃は、何も知らず無邪気で守られて幸せだった。夢のような佳景での再会の約束は、あの頃のすべてとのつながりのようなものだった。今となっては、緋華にとって生きていくためのよすがだ。
再会するために、生きようと思ってきた。
けれどもう、夢の中でなければ、会えないのかもしれない。
落ち葉が鳴っている。
座り込んでいた緋華は、その音に現実に引き戻された。
風が落ち葉を散らしていく音ではない。がさりがさりと、人が歩く音だ。目的もなく歩いているようだったが、さまよいながらも近づいてくる。
油断した。ぼんやりしていた。これでは支月にどれだけ叱られても文句は言えない。
緋華はまず、腰の刀を確認した。身を守る道具は常に持っている。
桜花は他の場所に比べれば安らかな土地だが、暴漢や強盗が出ないわけではない。暗殺ということもあり得る。
それとも城の誰かが、緋華がいないのに気がついて、探しに来たのだろうか。碧輝か、他の誰かが。
足音がふと止まる。さまようようだった音は、今度はまっすぐこちらに向かってきた。緋華に気づいたのか。
足早に来て、緋華の前に立ち止まる。間近で、何者かの気配が、息づかいがする。
緋華はうつむいたまま、羽織った着物の下で、刀の柄を握りしめた。だけど、警戒する心のどこかで、まさか、という思いがある。
でも、ありえない。望みはしても、ありえないことだ。
夢を見てばかりはいられない。夜にひとりきり、自分が招いた状況と対峙しなければならない。こんな時に、あやふやなものばかりに気持ちを囚われていてはいけない。
ざわめく心に蓋をする。しっかりと、見るべきものを見て、自分で歩いていかなければいけない。――でも。
それでもやはり、心のどこかで声がしている。抑え込もうとしても、彼女の一途な気持ちは囁くのをやめない。でも、と。
――もしかしたら、彼かも知れない。
心臓が早鐘を打つ。
「……大丈夫か?」
男の声がした。風が動いて、相手が目の前に屈みこんだのが分かった。緋華は刀の柄を握る手に力をこめ、睨むようにして顔を上げる。
間近で黒い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。視線が交わる。ただそれだけ、声も出ない。
夜の木陰、頼りに出来るのが月の明かりだけで、顔立ちはよく見えない。驚いた顔をしている緋華同様――否、それ以上に夜の色の瞳を見開いているのはわかる。
――まさか、と思った。
あの日のような、薄紅の花明かりはここにはない。身を千切るように舞う桜の花はない。ただ月影に、冷たい悲風が駆け抜けて、死にゆく葉がざわざわと音を立てる。
季節が違う。空気が違う。色が違う。この赤暗い桜紅葉の中、だけど、時間が巻き戻ったような錯覚が目の前を揺らす。桜吹雪の夢の中に。
緋華は、自分が幼い子供に戻ったような気がしていた。それとも、夢の中なのか。思い出せなかった少年の顔が、目の前の男と重なった気がした。彼が纏うのは、あのときの空気と同じ。
緋華の視線から逃れるように、男は数度目を瞬いた。
「死んでるのかと思った」
驚いた、とため息のようにつぶやいた。穏やかな碧輝とは違う、だけど、優しい声だ。それでようやく、これが夢でも幻でもないのだと実感した。
温かみを感じる、目の前の人の心を感じる、現実だ。そこにある。目の前の男は、とりつくろうように、困ったように笑った。
それから唐突に立ち上がる。素早く踵を返した。後ろで束ねただけの長い黒髪が、弧を描いて跳ねて、緋華は息を呑んだ。
行ってしまう。
唐突に目が覚めたような気がした。夢から振り落とされて驚いたが、思うより前に声が出る。
「待って、行かないで!」
手が、自然と刀から離れていた。相手が誰か知らない。どうして急に行ってしまおうとしたのか分からない。自分自身どうして呼び止めたのか分からない。――でも。
緋華の手は、男の袖をしっかりと掴んでいた。
男は足を止める。それからためらいがちにゆっくりと振り返る。表情は見えなかったが、ただ彼自身戸惑っていることが分かった。
振り返って再び緋華を見た男が、息をのむ。去って行こうとしたのに、その瞳は緋華をしっかり捕らえると、再び腰を落とした。
「大丈夫か?」
さっきと同じ言葉。男の声音には、掛け値なしのいたわりが込められていて、緋華はなんだか泣きたくなった。そう思って、自分が涙を流しているのに気がつく。夢から覚めた朝のように、ただ瞳から涙が流れていく。
人の前で涙を流すなんて。
「なんでもない」
驚いて、緋華は慌てて袖で涙をふいた。
そんな緋華を見て、男は、困ったように笑った。笑ったのが分かった。
向けられた笑みが、心に滲みる。にじむように染みる。じんわりとその名残にひたるように、緋華も彼に笑みを返していた。
「少し、話し相手をしないか。一人でいるのに飽いてたんだ」
緋華が言うと、男はおかしみの混じるあきれた声で応える。
「不用心だな」
「わたしのことを知っているのか?」
緋華が驚いた目を向けると、見つめてくる眼差しと、まっすぐにぶつかった。すると男は一瞬詰まって、顔を背けてしまった。拒絶しているというわけではなく、困っているようだった。
「神宮の緋華姫。現当主にして、西方神宮軍の御大将だろう。城下で、よく見かける」
「でも今、こんな格好だが」
いつもは結い上げている髪を肩にたらして、寝間着に女物の打掛をはおっているだけだ。普段の姿とはかけ離れている。
「分かる」
背けられていた顔が戻ってきてこちらを見る。そんなこと、と彼は笑った。
「あなたは誰?」
問いかけると、彼は小さくかぶり頭を振る。
「言えない」
「飛田の間者か?」
緋華は重ねて問う。神宮に属する者ではないはずだ、と直感で思った。
こんな男、噂にも聞いたことがない。神宮の者でないのなら、飛田の者に違いない。それなら、敵の情勢を探る役目を負う間者に決まっている。この戦が差し迫った時期におかしなことではない。そう思っての言葉だが。
真正面から尋ねることではないし、そんなことを聞かれて正直に答える人はいない。
「違う」
やはり男は否定した。あっさりとしていて、迷いのなさにかえって驚いた。間者ならそれくらい当たり前なのかも知れないが。名乗ることもしない癖に、あまりにも堂々としていて、疑うのが馬鹿らしくなる。
男は華奢に見えるが、腰に刀を帯びている。商人ではない。そこにある独特の鋭い気は、荒ぶる気質の武士とはどこか違う気がする。鋭利な刃を思わせる知的なものだった。でも、それだけではない。
その中に、小春日のようなあたたかさがある。
別にもう、誰だって構わないと、緋華は思っていた。どこか現実味のない雰囲気の中で、ぬるま湯に浸かるようにぼんやりと考えていた。そう――彼はもしかしたら、あの時の少年かも知れない。そう思う心も、確かにあったけれど。
問いかけることが出来ない。しっかりと捕まえようとしたら、そのまま、この時間も空気も、和やかな雰囲気も消えてしまいそうで、言えない。
だから、夢なら夢でいい。現実でなくてもいい。
それに「何者なのか」と再び口にした途端、男はさっきみたいに踵を返して、いなくなってしまうだろう。
害意は感じない。いたわりだけが、くすぐったいくらいに感じられる。意心地がいいから、このままでいい。
だから緋華は、問いかけるのをやめた。
緋華が言葉を止めると、男は、あきらめたように息をついた。緋華の傍近く、触れ合わない距離を保って、腰を下ろす。緋華と同じように、幹にもたれて座った。風は冷たく流れていくけれど、近くに、人の体温を感じる。
それから男は、緋華の方を伺うように見る。夜の色の瞳は笑っている。紺藍に彩られた肌が、彼の涼やかさを更に引き立てていた。だけど、その笑みは暖かい。
「大丈夫か?」
何度目だろうか。問いかけてくる声は、凛としていて涼しい。
「うん、大丈夫」
彼は困ったような笑みを浮かべただけだった。緋華の言葉に納得していない。
「気晴らしになるなら、何でも聞く」
真摯な声で彼が言うので、緋華も困ってしまった。
話をしないかと言ったのは緋華の方だったが、これが神宮の臣なら、桜花の民なら、気軽なことは言えない。けれどもう、泣いているところを見られてしまった。
緋華が迷っていると、男が重ねて問うてきた。
「上坂のことか?」
「……どうして」
誤魔化すべきだったのかもしれないが、驚きを隠せなかった。
「上坂が危ういのは、誰でも知ってる」
一触即発であることは、上坂の状況を見れば分かることだ。多くの民が、戦に巻き込まれないよう逃げ出している。
それを言うのが、戦支度を整えた桜花の緋華のもとで、得体の知れない男だというのが、不穏ではあったが。その不審さを、男が分かっていないわけがない。
だけど緋華はもう、余計なことは尋ねないと、このまま惑わされていようと決めてしまった。
だから、そうだよと頷く。
「本当は、いやなんだ」
言ってはいけない言葉だった。
「わたしが嫌なだけなんだ。戦に行きたくない」
人々が怒号をあげて走り回るあの場所。刃を振りかざし、人を殺し、踏みつけにして走り続ける。
手や足や首が飛び、血で地面がぬかるみ、その合間をまだ走り続ける。蒸せる熱気。汗と血の臭い。放置された遺体の臭気。迫り来る害意の渦。次から次へ生みだされる妖。肌を粟立てるあの空気。
敵兵が、緋華を廃しようと突き進んでくる恐怖。叫び声が向かってくる。そして周りの者が、いつもと違う顔をする。
だけど一番恐いのは、自分の見ていないところで、人が死んでいくことだ。
そばにいてくれる人がいる。支えてくれる人がいる。大好きな人たちがいる。とても頼もしく、ありがたいことだと思う。
だけどそれが、いつまでも変わらずにあるものではないのだと、思い知った。――だから、恐い。だからこそ、何が何でも、立ち続けないといけない。緋華がある限り、神宮はまだ静穏でいられる。この手で守らないといけない。
だけど――だけど、生きるためにだって、生かすためにだって、刀を振るって人を殺すことに慣れない。命じて殺させることに、慣れない。
「時々、神宮の当主であることも、将であることも、戦も、本当に我慢できないくらい辛くなる。……でもこれは自分で選んだ道だから、わたしに文句を言う権はないんだ。だから今だけ、少しだけ自分に弱音をはいたら、明日にはちゃんと持ち直す」
本当は声に出してはならない弱音だったけれど。そんな緋華の言葉に、男は緋華から目をそらした。真剣な表情をして、問うた。
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「――何?」
「どうして君は、神宮の当主になった? 本来なら、神宮の家臣が婿入りして、家督することになるはずだ」
男の言う通りだった。放っておけば、誰かが神宮を継いだ。こんな苦しみにさいなまれることもなかったのに。
三年前――神宮の先代が亡くなった。先代は、戦に必ず従っていった正室と一緒に討たれた。
当然神宮の家中は騒然とした。この隙をついて飛田方に一気に攻められるのを恐れ、当主の死を惜しむ間もなく、一刻も早く新しい当主を、西の将軍をたてなければならなかった。誰もが納得する、新しい将軍を。
しかしこればかりは、混乱を極めた。先代が明確に定めてないなかったせいでもあった。こうなっては、派閥争いで、家中が瓦解しかねない。皆あせっていたし、冷静ではなかった。
残された子供はひとり緋華だけで、たった十三だった。
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