6話 光の主はもういない

 支月を上坂へ残して、緋華は碧輝と共に桜花へ戻った。

 それから一ヶ月ひとつきも経っただろうか。

 草木が色づき、桜花の山は桜紅葉に燃え上がった。花の頃や、青葉の瑞々しさとは違う艶やかさに包まれる。城下に広がる田圃では、頭を垂れた稲穂が黄金に輝いて、収穫の慌しさに活気づいた。


 そしてやはりと言うべきか、上坂からの使者が来た。

 支月も息子の芳克も来ることは出来なかったようで、使いの臣が駆けてきた。


 飛田の兵が神宮の領に侵入し、刈り入れ前の田を荒らしていると。

 敵の兵糧を横取りし、自分たちの糧にする、分かりきった手だ。支月たちで今のところ抑えているが、宣戦布告に変わりない。

 報せを受けてから、兵の招集をかけて、実際に軍が出るまでには十日以上の時間を要する。もともと察していたから将兵の支度は早いが、召集される農夫たちはそういかない。

 ようやくその準備を整えて、桜花から軍が出立するのも間近に迫っていた。


 緋華は、濡れ縁に出て柱にもたれ、長夜ちょうやの空を見上げている。

 真円には少し足りない十三夜の月。


「やはり、戦には行くのでしょう」

 濡れ縁に佇む碧輝が静かに言った。

 彼の声は空気を乱さない。静穏な響きが、永夜に滲みる。


「もちろん」

「無理なさらなくてもいいんですよ」

「いいんだ、わたしはそれしかできないから」

 緋華が出来るのは、当主として城に座って、または女だてらに太刀を手に鎧をまとって、戦場に立つことくらいだ。神宮の血の象徴としてあることだけだ。

 それくらい知っている。

 ――気づかされた。この、三年の間に。

 自分の無力さ。

 支月がいくらそうではないと言ってくれても、当主を継ぐのだと無理を言った頃と同じようではいられない。それほど愚鈍ではいられない。見て学んできた事実だ。


「わたしがこうしたいと言えば、皆が尽力してくれる。本当のところ、わたしは何もしていない。だから、せめて陣頭には立つ。馬と刀の扱い方は、父上と遊んでいるうちに覚えたから、それくらいならできる」

 兵の動かし方も、父が昔よくやったという遊びで覚えた。

 紙面に地図を描き、碁石を兵に見立てて敵陣を攻める遊びだった。あの奔放な先代は、実はちゃんと後のことを考えていたのではないかと思わせる。――やはり、ただ緋華と遊びたかっただけかもしれない。そういう無邪気なところのある人だった。

 しかし例え、意図的ではない行動であっても、こうしてきちんと実を結ぶことが、彼の才だった。思考ではなく、感じ取るという力が。


「恐いんだ」

 緋華はただ静かに言う。

「わたしは、国を清めるのが務めのはずなのに。座って命じているだけで、人を死地に送る。殺させる。わたしが国を穢れさせてる。それに慣れるのが、恐いんだ」

 それが出来る自分に慣れるのが。自分は何の痛みもなしに、苦しみもなしに、結果が運ばれてくるのに慣れてしまうのが。

 自分自身が膨張して行く気がする。生身の自分を見失う。出来ることとやるべきことと、やって良いことの境がわからなくなりそうで。

 慣れて、皆が甘やかしてくれることに狎れてしまって、分からなくなりそうで。


「いつかわたしも、彼のようになるのではないかと思う」

 ――東に座す人のように。

「本当は、民がどうとか、後が大変だからとか、そういうことだけじゃないんだ」

 ただ、嫌なのだ。人が死ぬ絶望を知っているから。

「わたしは感情でしかものを考えられないから、嫌なだけなんだよ」


 勝たなきゃいけない。

 戦は勝っても負けても必ず爪痕を残す。目に見える部分、見えないところに。人を動かし、金銭を動かし、妖を呼び込み、国を穢す。それを押しても出陣するならば、勝たなければいけない。

 ――それでも尚、救いだなんて。

 飛田は、どれほどのことをしでかしているのだろう。


「大丈夫」

 優しい声に、緋華は碧輝を見る。夜の藍に染まった彼は、いつもと変わらない笑みを浮かべている。

「あなたなら、大丈夫です」

 彼はいつでもそうやって微笑んでくれる。何の根拠がなくてもいい。その言葉があれば、なんとかなるのだと思える。

 だから緋華は、うん、と素直に頷く。

「馬鹿なことしそうになったら、殴ってでも目を覚まさせてね」

 変わらず、決して揺るがず、そうやって支えてくれる人たちがいてくれることに、心から感謝した。




「また忙しくなりますね」

 小さな高灯台の光だけが照らす緋華の自室で、寝具の用意を終えた侍女の黄詠きよみが言った。

「姫様がお出かけになると、お城がまた寂しくなりますわ」

 用も終えてぐずぐずと居残るのは無作法なのだろうが、黄詠はしんみりと言う。自分で寝支度を整えていた緋華は、笑いながら応えた。


「留守は任せた。頼りにしてる」

「無事にお戻りくださいね」

「ありがとう。無謀なことはしないように気をつける」

「戦など、男の方に任せておけばよろしいのに」

 黄詠は、あきれたような、拗ねたような顔で言う。

「うん、まあ、ね。でも、分かっていたことだから」

 それは戦が起こることが分かっていたというだけのことではない。神宮の当主を継げば戦に行かなければならないことなど、分かっていたことだ。

「わたしは碧輝に頼りきりだから、本当に忙しいのは碧輝なんだけど」

 緋華がつぶやくと、黄詠は怪訝そうに言った。


「姫様は、碧輝さまがお嫌いですの?」

「そんなこと、ある訳ないじゃないか。どうして?」

「いつまで経っても、ご結婚なさらないのですもの」

 神宮の家臣の誰もが思っていて口に出さないことを、簡単に黄詠は口にする。臣よりも、傍近く仕える者にしかできないさりげなさで。

「……それは」

 一瞬、言葉に詰まってしまった。

「碧輝は、何も言ってこないし」

「まあ。そういうところだけ、しおらしくていらっしゃいますこと」

 笑い含みで言う黄詠に頬をふくらませる。

「悪かったね」


 かつて二度だけ、緋華の婿取りが問題になったことがある。

 そのうち一度目は、緋華が十になったばかりの頃だった。

 父はまだ在命だったが、緋華は一人娘で、家臣たちは緋華の夫を早く決めてしまいたかったのだ。

 緋華が跡継ぎを生まない以上、神宮が、皇家の血が絶えてしまう。それと同時、一人娘の緋華の婿となれば、神宮の長になる。緋華を差し置いて、養子をとる訳にはいかない。それでは飛田に対して、神宮は正当性を失う。

 緋華を奥において、緋華は禍つ祓いを行い、その夫が政務と軍を仕切る。そうなるはずだった。


 けれど父は、それを一笑に伏してしまった。その時ちょうど側にいた緋華を膝に抱いて。

「政略結婚の必要なんてもうないようなもんだから、別にいいんじゃないか、相手が誰でも」

 その頃は、神宮と飛田の他にも群雄と呼べる家々が、わずかに存在していた。戦をしないで相手を従えるための政略結婚も策ではあったが、残った小さな家をおさえるために誰もそれを望まなかった。

 それならば、家中の誰かと、と家臣たちは渋る。


「緋華が決めればいい。俺は緋華を信じているから、緋華が決めた相手なら大丈夫だ」

 例え相手が何者でも、と彼は言った。まだ幼かった緋華の耳に、その言葉は妙に印象深く残っている。

 本当は、誰でもいいなんて、そんなことある訳がなかったのだが。

「こんなに小さいのに、婿取りの話なんか先のことでいいじゃないか。もう一緒に遊んでくれないかと思うと、父は寂しいぞ」

 そう付け足して彼は、娘を抱き寄せたものだった。本当に武士らしくない人だったとは、今更ながらに思う。


 ただしあの時父が誰かを選べば、神宮の家臣の内で、力の均衡が崩れていた。当主が指名すれば、その者が跡継ぎになる。

 まだ対抗すべき家々があり、飛田家は先代が亡くなったばかりという頃だった。家中を乱れさせるわけにはいかない時期だったことも確かだった。だから父は、何も決めなかったのではないかと、今は思う。


「あの……姫様、本当に差し出がましい口を利いて……」

 物思いにふけって黙り込んでしまった緋華に、黄詠は気弱な声を上げた。支月と同様、はねっかえりの緋華にいつもキリキリと釣り上げている眉を、今は不安げに寄せている。寝具の側に座り込んでいた緋華は、吹き出してしまった。黄詠は戸惑い、声を上げる。

「もう、なんですの?」

「いや、うん、ごめん。気にしないで」

 もれる笑いを抑えながら、緋華は言う。笑われた黄詠はツンとした顔で「お休みなさいませ」と、丁寧に手をついてから、部屋を後にした。


 黄詠を見送ってしまうと、途端に静けさが満ちた。

 緋華はもともと一人きりでいることがあまり好きではない。自分が寂しがりなのを分かっていた。近頃はなんだか色々と思い出すことが多くて、余計に寂しかった。きっと、日に日に冷たくなる秋の風と、戦が近いせいだろう。


 本来ならこの城には、父も母もいた。父が居るだけでここはとても賑やかだった。母はもの静かな人だったけれど、そばにいるだけで気持ちを落ち着けてくれる人だった。

 一人きりになると、その不在の闇は膨れ上がって襲いかかってくる。

 失ってしまった人の存在はあまりにも大きくて、桜花の城はとても空虚だった。もう随分たつのに、まだ逃れられない。まだ甘えている。

 小さな高灯台の明かりは、夜の室内を照らしてくれるけれど、この心にまでは届かない。

 寝具に座したまま、自嘲の笑みがもれた。

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