8話 美しき鬼

 渡廊わたろうの方で騒ぎが聞こえる。護衛の男が留まったはずの場所だ。

 支月が倒れた時を思い出した。――まさか、支月に何かあったのか。

 落ち着かない緋華を見て、寿香院は閉ざされたままの舞良戸を見遣り、声を上げた。

「誰かある」

 すぐに侍女が足早にやってきて、寿香院の後方、下座にあたる舞良戸まいらどが開かれる。ひやりとした風が吹き込んだ。濡縁に座したまま、侍女は手をついて言う。


「堀内様がいらしています」

 飛田家の家老の一人の名に、まあ、と寿香院が声を上げる。滅多にあることではないのだろう。

 では、支月に何かあった訳ではないのだ。何かあったとしても、堀内が知ることなどあり得ないはずだ。

「先触れもなしに? どういった御用向きかしら」

「寿香院様の御機嫌うかがいとおっしゃっていますが、恐らくは、神宮様に御用向きかと」

 まあ、と寿香院は、今度は少し柳眉をひそめた。

「神宮様にお会いしたいからと、ここに押し掛けるのは無礼です。お取次は、御屋形様か日下部様のお許しを得てからでないと」

「左様でございます。お引き取りいただくよう、お願いしております」

 寿香院と侍女のやりとりに、緋華は慌てて口をはさんだ。外で聞こえる声はおさまる気配もない。


「寿香院殿、ご迷惑をおかけするわけにいきません。あの様子ではすぐに引き取られそうにもありませんので、わたしがお暇をします」

 その申し出に、寿香院は柔和だった表情を厳しくした。

「いいえ、こういった無礼に負けて、道理を曲げてはいけません。神宮様にもしもがあれば、わたくしも後悔するだけではすみませんわ。この同盟の意義は、心得ているつもりです」

 愚かなことをする人ではないと言った護衛の男の言葉を思い出させる、毅然とした態度だった。寿香院は侍女を振り返って言う。

「日を改めて正しい手順を踏まれるよう、お伝えして頂戴」

「しかし、寿香院殿」

 このままだと面倒事に巻き込むかもしれない。


 けれど緋華が言い募るよりも前に、渡廊の方から、ひときわ大きく声が聞こえた。

「堀内」

 よく通る強い声。護衛の男の声だ。だが、ただならない響きがある。

「神宮への取次は、日下部か武藤を通すようになっているはず。無理を通すつもりなら、叛意ありとみなすぞ」

 突然、太い声で笑い声が弾けた。同時に足音高く濡縁をこちらへ歩いてくる者がある。


 濡縁に座したままだった侍女の後ろに、髭をたくわえた壮年の男が現れた。恰幅が良く、銀夜と同じように大柄だが、銀夜にはない重圧感がある。

 尋常でない空気に、侍女は小さく声をあげて横へ退いた。それを押しのけるようにして、居室に足を踏み込む。

 立ち止まる様子もない勢いに、寿香院は下座で緋華と対面していた場から立ちあがった。打掛けの裾をさばき、数歩横へ退いて座る。

 だが堀内より下座には動かなかった。


「堀内様、このように失礼なこと、感心いたしませんよ」

 声を厳しくして、寿香院は言う。堀内は、音を立てて下座に腰を下ろした。

「場を乱して申し訳ない、寿香院様。そして、神宮の姫君」

 まったく悪びれず、堀内は言った。

「東方将軍飛田家家老、堀内岳理たけのりと申します」

 名乗りを上げる。頭を下げながらも、挑戦するかのように緋華を睨みあげる、その様子はまるで、一騎打ちを挑みかかられたような気にさせる。


 どのように受けるべきか迷った。

 このように無礼な行い、寿香院の言うように、まともに受ける必要はない。だがここで退くのは、まるで逃げるようだ。緋華が応えずにいると、堀内は言葉を続ける。

「三島殿とは夕餉を共にされたとうかがいました。分け隔てなさるのは感心いたしませんね」

 笑みの一つもなしに、彼は言った。押しかけてきておいて言うこととは思えない。


 緋華は知らず、自らの横に置いた刀を確認した。身を守るための刀と、刀袋におさめたままの神居の剣。人と妖から身を守り、緋華の身を証すためのもの。

 それから、強く堀内を見遣る。

「いずれ、皆同じようにするつもりだった。堅苦しい場では話せないこともあるだろうから」

 堀内はただ笑っている。緋華を責めながら、そんなことに興味がないのなど明らかだった。




「堀内」

 舞良戸は開け放されたまま、雪景色の庭が見える。いつの間にか日は沈み、宵の曇天の元、白い雪に覆われた庭は仄白く輝くようだった。

 そのきよらな雪化粧を背にして、緋華の護衛の男が立っていた。

「叛意ありとみなすと、言ったぞ」

 よく通る声は、冷たく響いた。彼からは、緋華が聞いたこともないような声だ。

 飛田の重臣を呼び捨てて、一介の武士が言う言葉ではない。


 まさか。

 男は居室の畳の上に、足を踏み入れる。横向きに座していた寿香院が、声の主を見て、小さく驚きの声をあげた。


 ――まさか。肌を刺すような風のせいだけでなく、頬が震える。


 堀内はふてぶてしい笑みを緋華に向けて、背後へ向けて言う。

「日下部殿も、武藤殿もいらっしゃらないのに、どうやって奏者の務めを果たしていただけば良いのですか」

 困惑に支配されつつあった緋華に、その言葉が突き刺さる。

 坂上の乱を抑えるために銀夜が起ったのは誰もが知っている。だが、支月のことは。


 腹の底に怒りがわき上がる。

 けれど緋華が何かを言う前に、くつくつと喉の奥で、堀内は笑う。

「ですが、殿もお人が悪い。まさかこのように、神宮殿にべったりな程に、お気に召していらっしゃるとは思いませんでした」


 殿、と呼んだ。

 堀内の後ろに立つ男の白面から表情が消える。

 ただ冷淡な目で堀内を見下ろす。そうすると、冷たく整った顔は、凄絶なまでに美しかった。


 ――――美しき、鬼。

 ひらめくように言葉が脳裏に浮かぶ。かき消そうとしてかなわない。はりついて離れない。


 秋の桜花で会った時にも、戦の時にも、一介の武士には言い得ないことを彼は言った。

 他者に跪くことを知らず、はじめから緋華の目を見て対等に話した。

 気づくべきだった。そうかもしれないと疑うべきだった。

 だけど、どうして、敵たる彼が桜花にいて、あんな風に話すと思うだろう。泣いていた緋華を気遣って。戦場にただ一人、命の危険を冒して緋華の元に来るなどと思うだろう。


 ――だけど、どこかで、気づいていたのかもしれない。認めようとしなかっただけで。


 許せない、とどこかで叫ぶ心がある。

 何故、何のために、碧輝を殺し、自分を惑わせて、こうして苦しめるのか。


 あの戦の日、旗印のもとに見えた姿を思い出す。

 救いの無い戦場で、馬上で一人清らかにいた彼の姿。誰よりも血に濡れているくせに、そんなものまるで自分には関わりのないことのように、一人だけ白く清くあった。あの時の不吉な思いがよみがえる。


 ――騙されていた?

 身分を隠して自分に近づいて、気をゆるませて、油断させて。

 戦をやめるための道だなんて、すべて嘘なのだろうか。騙してこうして白蛇に連れて来て、神宮を手中におさめるための。


 ――それなら、とっくに殺せたはず。

 でも、だからなんだと言うのだろう。生かされているから何だと言うのだ。

 緋華が疑ったように、飛田の臣が思っているように、神宮を手中におさめて、すべてを飛田の元にまとめようとしているのかもしれない。その後で緋華を殺すつもりなのかもしれない。

 どうしようというのだろう。本当は、何をしたかったのか。わけがわからない。


 うまく息が吸えない。冷たく乾いた空気が、喉の奥に貼りついて、呑み込めない。

 雪の庭を背に立つ男を見る。

 緋華の姿が見えているはずなのに、彼は緋華を見ようとしなかった。

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