2話 彼岸花ゆれる道

 ※


 路傍に彼岸花が揺れている。空は高く澄んで、気持ちの良い朝だ。田に流れる風は、髪を結いあげて男装で歩く緋華を撫で、和やかに過ぎていく。忙しく働く人々の汗を拭うように。

 神宮家本拠地、桜花。異例の女当主である少女は、腰の刀を外して道端の木陰に身を寄せる。赤い花の群れの傍に、腰を下ろした。

 今頃は城で侍従や臣が大騒ぎだろう。だが厩舎の兵にも、門衛にも顔を見せているのだから、大事がないことなどすぐ伝わるはずだ。いつものことだ。


 ――桜の夢を見た日の朝は、少しだけ、城の中に留まるのがつらかった。

 風が木立の葉を、緑の稲穂を、ざあざあとさざめかせていく。緋華は揺れる緑の波を見て、大きく伸びをした。手を下ろすと、体の内に篭った力が抜けていくのが分かる。風がさらって逃げていく。

 道を行く人々が頭を下げ、気軽に挨拶していった。神宮の主たる少女を城下で見ても、今更誰も奇異の目で見ない。ただ親しげに声をかけていくだけだった。緋華もそれに笑みで応えて、しばらくゆっくりと、田畑で働く人々を眺めていた。

「緋華さま、遊んでるー」

 子供たちがパタパタと駆けてきて、緋華を覗き込んだ。大きな子供は、赤ん坊を背負って子守をしている。緋華は少し笑って、子供たちに弁解した。

「少し休んでいたんだ。遊んでいるんじゃないよ」

「もうすぐ刈り入れで、休む間もないくらい忙しいのに!」

 自分が親に言われたことなのか、子供たちは屈託なく緋華に言う。刈り入れ時期は少し先だが、準備に追われる農夫は息をつくいとまもないのだろう。田植えと収穫は大仕事で、このときばかりはいがみ合っている人間も手助けしあう。それに今は、戦を目前に控えている。

「それは、すまなかった」

 緋華が思わず謝ったところで、早駆けの馬の蹄の音が届く。


 顔を向ければ、赤い彼岸花の咲く道を、こちらへ馬が駆けてくる。壮年の武士が騎乗していた。子供たちは声をあげて逃げていく。

 馬は砂埃をたてながら、緋華の眼前で止まる。笑顔で手を振る緋華に、馬上の武士はため息を落とした。馬を降りてから、疲れた声で言う。

「ここにおいででしたか」

「やあ、支月しづく。何かあったのか、そんなに慌てて」

 緋華は脇に置いていた刀を持つと、杖にしながら立ち上がる。

「やあではありませんよ。御当主が城から姿を消していれば、誰だって慌てます」

 男が呆れ顔で言う。武藤むとう支月。西の神宮家を支える重臣の一人だ。その落胆ぶりがおかしくて、緋華は笑ってしまった。

「なんだ、いつものことだろう」

 緋華は、のんきに空を見上げた。小さな鳥が、白い腹を見せながら空を渡って行く。

「いつものこととおっしゃいますけどね。それがおかしいのですよ、緋華様。お父上を見て育たれたから、もしかして、姿をくらませたり家臣を驚かせたりするのが、当たり前のことだと思っておいでなのではありませんよね」

「違うのか?」

 刀を腰に挿しながら、きょとんとした顔で返す。その様子を見て、支月は見るからに脱力した。あまりにがっくりと肩を落とすので、緋華はまた笑ってしまう。戯言だと笑う緋華に、支月は恨みがましい顔で言った。

「どうして、おひとりでこのようなところにいらっしゃるのです」

「すまない。戦の前に、桜花の様子を見ておきたくて。支月に気づかれる前に帰るつもりだった」

「わたしが気づく気づかないの問題ではありません! しかも何故お一人で徒歩かちなのです」

「戦支度で忙しいと言うのに、手をわずらわせるのもはばかられて」


 国の東を治める飛田家との戦が、国の境で起きている。緋華の腹心、遠野碧輝が上坂城を包囲し、そこに緋華も駆けつけることになっていた。敵の当主を包囲して、勝利を目前とした戦だった。

 もしかしたらここで、この戦乱の世が終わるかも知れない。だが、このまま簡単にすむはずもない。おおっぴらには口に出さないが、誰もがその予感を抱いている。戦場から遠く離れたこの桜花でも、不穏を孕んだ空気に満ちていた。

 大人しく城に座っていられなかったのも、夢も見たのも、きっとそのせいだ。

「お忙しいのはあなた様ご自身もですし、そのようなお気遣いは無用です」

 叱られて、うん、と緋華は苦笑する。

「出かけるなとは申しませんから、せめて供をお連れになってください」

「心配ばかりかけて悪い」

 本当は、ただ一人になりたかった。それは、例えこの爺やが相手でも、言うことはできなかった。


 すんなりと謝った緋華に、壮年の男は拗ねるように唇を歪めて見せた。ずるいと顔が言っている。それから恨みがましい声を出した。

「緋華様がお生まれになったときは、本当に玉のようにかわいらしいお子で、きっと母君のような、しとやかなお方にお育ち下さるだろうと思っておりましたのに」

 なぜ、こんなにも男勝りになったのか、と。

 爺の愚痴が始まった、とまた緋華は笑う。

「母上は、平時は物静かだったけれど、父上と一緒に戦場で刀を振るう人だった。しとやかとは言わないよ」

 女だてらに鎧をまとって、常に夫の傍らにあった人の姿を思い出して、支月は言葉に詰まってしまった。

「それに大人しくしていられないのは、神宮の血だ。仕方がない」

 神宮家の初代も民によく親しまれた人だったと言う。家を抜け出して城下をうろつき回りたがるのは、神宮家の者の血なのだろう。武家の頭領にあるまじき、とは言うまでもないことだったが。

 西の神宮家を背負って立つ少女は、明るく笑いながら言った。

「悪いと思っているよ。神宮の宿老に使い走りのような真似をさせて」

 支月は言葉を詰まらせたまま呑んでいた息を吐いて、大仰な溜息をついた。

「これがわたしの宿命のようなものですから」

「父上の時からね」

 支月は若い頃から、緋華の父である先代の守り役でもあった。兄のように彼と共にあった。緋華を探して城下を駆けまわる支月は、若い頃も同じように先代を探して、城下を走り回されていたらしい。

 支月は懐かしむような顔をした。


「先代は緋華様よりもずっと、それはもう手のつけようがないヤンチャな方でしたからね。わたしもそれはそれは苦労をさせられましたとも。一度などは、溺れた子供を助けるために、川に飛び込まれたりして、本当に肝を冷やしました」

 思いだしたのか、支月の声は少し震えた。

「確かに無茶な人だった。気がついたら、田植えを手伝ったり、道ばたで自分の釣った魚を売ったりしていたし」

 豪華な衣よりも、質素な装いを好んだ。その着物を泥だらけにして、太陽の下でいつも笑っていた人だった。自分で釣った魚で櫛を買い、緋華に土産だと持ち帰ったこともある。

「わたしもよく連れていってもらった。結局いつも母上に、いつまでも子供みたいな人だと言われていたな。そうすると少しの間だけ、大人しくなるんだ」

 その緋華の父も母も、亡くなってすでに三年が経つ。

「親子そろって苦労をかけるな」

 笑う緋華の髪を、風が撫でていく。ただ懐かしむだけで、少しの苦渋も見せない彼女に、支月は頭を振った。

「よろしいのです。今となってはもう、これが爺の楽しみですからね」


 神宮の先代が亡くなったときに、支月はそれまでの名を捨てた。

 武藤の祖先は、神宮の初代を助けた名軍師と名高い人だ。その武藤芳月むとうほうげつの頃から、武藤の嫡子は「芳」の字を戴くのが慣例になっている。だが彼は、その名を捨ててしまった。神宮の先代が亡くなったときに、自身も死んだのだと言った。

 隠居なり、僧籍に入るなりしておかしくなかった彼がとどまったのは、一重に緋華がいたからだ。今はもう、家のことはほとんど息子にまかせ、緋華の世話を焼くのが楽しみで生きているようなものだった。

 同時に、そういう彼がいなければ、今の神宮や緋華があったかどうか分からない。

「いいのか、そんなことを言って。緋華が増長して余計に遊びまわるようになったら、支月の責だからな」

 緋華が笑うと、支月は諦めきった顔で、「良いのです、いくらでもおっしゃってください」と、もう取り合わないが。

「そうは言っても、支月は四十を少し過ぎたばかりじゃないか。年寄りくさいことを言うな」

「充分生きて参りましたよ」

「支月には、七十も八十も生きて、緋華の子に小言を言ってもらわないと困る」

「緋華様がそうおっしゃってくださるなら、尽力いたします」

 うん、と緋華は短く応えて笑う。頼りにしているよ、と。


「もうすぐ、収穫だな」

 やがて、あの稲穂が黄金に色づく。重く頭を足れ、人々が一年で一番忙しく立ち働く時期が来る。そして収穫を祝い、感謝し、笛太鼓で祭る。何より、喜ばしい季節だ。

「そうですね」

 だが、応える支月の声は少し重い。それに気づかないふりで、緋華は明るく続けた。

「支月、町を回ってから城に戻る。共をせよ」

「仰せつかりました」

 今更、改まって供を申しつける緋華に、支月はやれやれという調子でかしこまって見せた。

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