第一章 少女が国を継いだわけ

1話 桜舞う夜の夢

 月明かりのもと、桜の中を少女が舞っている。ひらひらと白い袖がひるがえる。


 ――ひとつ ひかりの あまつたう

 ひとり歌う声が、楽しげに響いた。


 この国に住まう者ならば、子供でも歌える数え歌だ。木々の間を遊ぶ蝶のように、くるくると戯れながら、山の中を進んでいく。


 ――ふたつ ふゆの きよらな ゆきのなか

 夜の帳をはらう声も足どりも、軽やかだった。


 少女が眼差しをあげる。山を覆いつくす桜雲の、その頂に鎮座する城を見上げた。国の西を治める神宮かみや家の居城、桜花城おうかじょうだ。


 ――みっつ みくらの はなまう はる

 その壮麗な姿を見て笑みを深め、少女はくるくると舞う。


 ふと、その足が止まった。唇を開いたまま、歌声も止まる。かざしていた袖が、春の夜風に揺れた。

 少女の瞳は、木々の群れの中、ひとつの巨木の根元をとらえていた。――とらえられていた。


 桜の花びらは藍色の夜をやわらかく染めて零れ落ち、地に降り積もっている。

 その桜の敷物の上に座り込み、華奢な体を幹にもたせかけて、誰かが眠っている。

 白い衣が夜の藍に浮かぶようだった。いつからそうしていたのか、結いあげた長い黒髪に、肩に、投げ出した膝の上に、淡い花びらを積もらせている。

 仄かな花明かりの下、降り注ぐ飛花ひかに埋もれて、まるで幻のようだった。瞼をおろして身動きもしない。


 ――よっつ よわの つきのした

 掲げていた手をおろし、少女は、つぶやくように歌う。まさに、月の下、神の御坐の花さくら舞う夜。


 頼りにできるのが月明かりだけでも、そこに座るの人の、うつむいた横顔は美しかった。

 少年か少女かも分からない。花衣をまとった美しい人のいる光景そのものが、まるで歌の中のことのようだった。これはうつつではないのだろうか。夢の中にまぎれこんだのだろうか。


 きれい。

 少女は惑い、ひとつ大きく息をつく。

 眠っていると思った。でも、身じろぎ一つしないその人は、本当に眠っているのだろうか。――生きているのだろうか。血の気のない白い頬が、かける言葉をためらわせる。

 迷って、だけど放っておけなくて、少女は唇を開いた。


「どうしたの?」

 ひそめた声は、静寂の中に響いた。

 その人の睫毛が微かに震えて、そっとため息が落ちる。吐息が花冷えに震えて白い。それは、命の証だった。

 勇気がわいて、少女は再び問うた。


「ねえ、ここでなにしてるの? ひとり?」

 返る言葉はない。眉がかすかにしかめられる。気だるい無言の拒絶があった。それすら、この零れ桜の中では、花に酔ったようだったけれど。

 少女はじっと黙って、根気強く答えを待っている。

 頭上からは、枝に抱えきれない花びらが降り続けている。座ったままのその人は、再びため息をついた。無視するのを諦めたのか、目を閉じたまま、唇を開いた。


「……ひとりだ」

 澄んだ声が落ちる。少年だ、と気づいた。

「誰も一緒に来なかったの? こんな夜更けに?」

 ひとり桜の中をさまよっていた自分のことは忘れて、少女は問う。このことに関して、自分は少し特別なのだと自覚があったから、考えていなかった。

「誰もいない。誰もいらない。俺の勝手で、誰も巻き込まない」

 夢や幻のような空気に見合わない、堅い声で彼は言った。


 その時、ひときわ強い風が、吹き抜けていった。枝から振り落とされた花びらが、地面から舞い上がった花びらが、二人の上に降り注ぐ。

 冴えた夜の風に、少女は自分の腕を抱えて縮こまった。


 とっさに、桜の幹の元に逃げ込んだ。風を避けて少年の隣に座り込む。触れ合った肩が、衣越しにも冷たかった。

 驚いて、少年が顔を上げる。瞳を開いた。澄んだ夜の色の、強い瞳だった。美しい顔立ちの凛々しい眉には、甘さも弱さもなかった。


「寒いね」

 間近で目があって、少女は面映ゆく笑う。少年は戸惑ったようだった。何も言わずに目をそらした。

 逃げていった視線に構わず、少女は少年に語りかける。


「ねえ知ってる? ここの桜は、贈りものなんだって」

 言葉は返らない。少女は頭上の桜を見上げて、白い息を吐きながら続けた。

「昔、ここに桜のきれいなお屋敷があってね、きれいな姫君がいたんだって。姫君が亡くなった後に、残された人が、思い出にこの山を桜でいっぱいにしたんだって」

 そして、桜雲の向こうにそびえる城を見た。

「大好きな人へ、大好きだよっていう思いをいっぱいに込めた花なんだって。だから、こんなに優しいのかな」

 だから、こんなに恋しいのだろうか。


 桜の季節になると、昼も夜も、心が落ち着かなくなってしまう。何も手に着かなくて、窓から見える桜を眺めて、ぼんやり過ごしてしまう。ずっとここにいて、薄紅の花に包まれていられたらいいのにと思う。


「明日は、城下でまがはらいがあるの。この国を守ってくださいって、桜にお願いするの」

 桜花の町の中央には立派な舞殿が設えられていて、春桜の咲く頃には必ず禍つ祓いの儀式が行われる。清め舞を舞うのだ。町を災いから守るために。明日は少女も、父と共に舞うことになっていた。

 気持ちが昂ぶって、おちつかない。

 少年はつられたように、何も言わずに、桜を見上げる。少女はその白い横顔に、再び問いかける。


「どうしてひとりでここに来たの?」

 少年は小さく笑った。

「桜花の桜を見ずして生を語るな」

 それは誰が言い出したものか、この地の桜を称える言葉だった。

「ずっと見てみたかった。ここの桜は、心が洗われるくらい、きれいだって聞いてたから。どうせ死ぬなら、きれいな場所がいいと思ってた」

 何程のことでもないように、澄んだ声は淡々と死を語った。顔を戻し、何もない空間を強いまなざしで見て言った。

「ここに座って、死ぬのを待ってた。もう目が覚めないように眠ろうと思った」


 驚いて少女は傍らの少年を見る。

 肩に触れる少年の冷え切った体は、彼が本当にずっとここにいたことを示していた。このまま座って眠って朝を待てば、凍えて目覚めることはないかもしれない。


「どうして」

 思いもかけなかった少年の言葉に、少女の眼差しが揺れる。

「どうして、死なないといけないの」

 「死」という禍つ言葉を恐れて、声が震えた。

 それは、終わるということだ。何もかも終わって、誰にも会えなくなって、桜の夜を楽しむことも出来なくなるということだ。今日起きたことを話して、笑って、手をつなぐこともできないということだ。少女の周りには、それを望む者はいなかった。


 少年はまた、ため息をつく。

 ふいに、少年の向こうの桜の根元の空気が黒く濁った気がした。木の虚から、骨張った小さな土気色の手が伸びた。幹を掴む。

 少女は思わず息をのんだ。幼子のような大きさの、細すぎる体が現れる。焦げ茶色のいびつに大きな頭には、角が生えている。


 ――――あやかしだ。

 よちよちとおぼつかない足取りで歩いてくる。まるで「死」という言葉に、誘われたかのように。空洞のような目でこちらを見ている。桜の山の澄んだ空気を澱ませて、怖気をふるうような闇を纏っていた。

 この神宮の居城の膝元で、この桜の山で妖が出るなど。


「どうして……」

 思わず少女が声を漏らした。恐怖よりも驚きで体が動かない。

 少年は気だるそうに小鬼を見て、眉をしかめる。

「ずっとついてくる。ここに来ればいないかと思ったのに」


 妖は刃や弓をもって滅することはできるが、それだけでしかない。彼らは人の負の感情に呼応する。悲しみに、恨みに、怒りに、恐怖に。それは人が生きていれば、決して消えることのないもの。だからいつだって、どこにだって現れる。

 妖が近寄らないように地を清め、風を祓うことは、皇家の者の務めだった。だが皇家は滅び、今はその血をひく神宮家と、国の東を治める飛田家が、その役目を担っている。

 そしてここは神宮家の膝元、念入りに守られたこの桜の山で、妖が出るなどあり得ないことだった。

 それでも妖が出るならば、彼の強い負の心のあらわれだ。死ぬのを待っていたと言った。その心が、安らかな訳がなかった。


 小鬼がどす黒い瘴気を放ちながら向かってくる。少年は邪険に手を振り払った。

 袖にあおられ空気が揺れる。

 その白い指先が、小鬼に触れるか触れないか。まるで掃き清めたように、澱んだ空気が消えた。そして幻のように小鬼の姿も消える。

 驚き見上げる少女の目を見返して、少年は皮肉に笑った。


「俺はどうやって生きたらいいか分からないんだ」

 小鬼を祓った手が拳に握られる。

「俺は、俺なのに。俺の周りのやつらは、俺のことなんて見ていない。俺をどう使うかだけを考えてる」

 少女には、彼の言うことが分からなかった。

 いつもそばで見守ってくれる人たちがいて、少女の思いを慮ってくれた。なすべき事があった。

 どう生きたらいいか分からないという彼の言葉がわからない。けれど清められたこの地で妖を呼び寄せてしまうほどの、深い苦しみがあるのは確かなことだ。


 少年の肩に、髪に、静かに桜が降り続ける。途端に、死を悼むこの花に包まれた彼が、とても悲しく見えた。

 少女は勢いよく立ち上がる。身をひるがえして、ただじっと前を見つめる少年の前に立った。


「死なないで」

 ひたむきな思いをこめて、言葉を紡ぐ。

「わたし、あなたのこと見てるよ」

 誰が見ていなくても、自分がこうして見て、語りかけていると。せっかく会えたのに、と、ひとえに惜しんだ。いなくならないでほしい、死なないでほしい、と思う。けれど何を言えばいいのか、どう伝えればいいのか、分からない。

 ただ、ひとりきりで座り込んでいた少年に、ためらいもなく少女は言った。


「誰も一緒にいてくれないのなら、わたしといればいい」

 少年が誰かなんて分からない。何も知らない。彼が何を苦しんでいるのか。だけど、寂しいのなら一緒にいればいい、と。

 この土地の、優しくも悲しい景色に溶け込む彼の、その真っ直ぐな眼差しが、悪いものなわけがない。


 少年は応えない。ただ驚いて、少女を見た。夜の色の瞳で少女を見て、ただただ見て、幾度か惑うように瞬きをした。

 少年の眼差しを受けて、少女は微笑んだ。

 まっすぐに手を伸べる。

「この桜の山が、神宮が、あなたを守るよ」

 二人のまわりを、花冷えの風が、遊ぶように吹いていく。髪をなびかせ、降り注ぐ花びらを惑わせて。


 ――いわいのもとに、まがつけあれはあらじ

 少年が澄んだ声でつぶやいた。清めの歌を。

 そしてためらいがちに少年の手が伸ばされる。そっと少女の手を握った。少年の冷え切った指先が、心を震わせた。

 少年が立ち上がると、彼の上に降り積もっていた桜が、音もなく舞い上がった。髪に桜の花びらを絡ませたままで、少年は少し恥ずかしそうに笑った。


「ありがとう」

 ゆっくりと言った。噛みしめるように。

「俺、もう少し、生きてみる」

 彼はただ微笑んだ。悲しい笑みでもなく、自嘲の笑みでもなく、穏やかな表情で。


「家に戻ってがんばってみる。――君のために、がんばってみる」

 少女はちいさく首を傾げた。少年の言葉が、本当に意味することは解らなかった。だけど、にっこり笑って頷く。

 何でもいいからがんばって。がんばって生きて、そして――

 月明かりのもと、ためらいがちに少年は問いかける。


「またいつか、会えるかな。またここで一緒に、桜を見てくれる?」

 それは願い。

 ただの、願い。

 ――――嬉しい、と少女は思った。

 自分もそう願ったから。また会う約束は、生きることの証だった。

 少女は微笑み、頷く。

 また会えると、信じていたから。ここにいれば、会えると。

 誰もいてくれないのなら、わたしといればいい。その言葉は、嘘じゃなかった。だから、ためらいもなく頷いた。




 大きく漏れた吐息と共に、夢はどこかへ消えた。

 目を開いた緋華ひかは、自分が涙を流しているのに気がついた。あたりは、障子戸がほの白く漏らす明かりに満ちていた。朝が訪れようとしている。

 天井を見上げながら、手の甲で目元を拭う。


 藍色の夜の、花に埋もれた少年の顔を思いだそうとする。けれど、夢の中でははっきりと見えていたはずなのに、遠く霞んでしまう。

 あのとき、少年の名を聞かなかった。夢のような時はそれを忘れさせた。それに幼い自分は、簡単に信じていた。またすぐに会えるのだと。いつでも尋ねることができると。


 またいつか、ここで一緒に。

 その約束はまだ果たされていない。

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