2話 鬼がごとき主従
最初の奇襲で、城に残っていた兵が討って出てきていた。陣内は敵も味方も入り乱れていた。そこで神宮の陣に火を放つなら、飛田の兵をも焼くのと同じだ。
この撹乱の作戦は、兵を逃がすためではない。それはありえない。「どうせ、おめおめ自分だけが逃げるつもりなのだろう」と笹田が口にした、その言葉が真に迫ってくる。
兵を、軍を、将を手駒にして、城すら捨てて、確かにこの混乱と視界の中なら、少数精鋭ならば、逃げおおせるかもしれない。自分から攻め入っておきながら、兵を率いてきておきながら、簡単にこうして放り捨てるのか!
誰が立てた策だ。宇野なのか。彼は確かに、飛田家の譜代の配下で、わずかな忠臣として知られていた。だが彼がこのような、将も兵も捨てるような、無謀と言うにすら易い行動を起こすとは思えない。命令でもなければ。
皇家の血は守るべきだ。
だがこんな手で兵を捨てて、誰が飛田についていくのか――こんな風にしてまで、生き延びるほどの、生き延びさせようと思えるほどのものなのか、飛田の主は。
非情で知られる敵の、人々が囁く通り名を思い出す。
改めて強く意味を持って、碧輝の心を凍らせた。夏の終わりの、この熱気の中にいるというのに。
火の手が早い。音が、熱気が思考を鈍らせる。
「伝令、城など構わなくていい、一刻も早く退くよう各所に伝えろ!」
動揺に乱れる兵に向けて怒鳴る。伝令が役目を思い出し、短い返答と共に走り出した。
優秀な馬廻り衆ですら、この有様だ。まずこの、大将の座す陣幕が襲われた。これでは混乱を抑えられない。
「誰か、
数日の後には、主がやってくるはずだった。主の姿がここにあった方が、皆の士気が上がるのはわかりきっている。だが、こんなところに来させられない。
何よりも、この惨状を主へ伝えなければ。火の手も音も怒号も、おさまる気配がない。もう、どうにもならない。
焼け焦げた将の死体を見下ろして、怒りが突き上げた。
そのときだった。
怒号が飛び交う頭上を、細く高い笛のような音が飛んでいった。鏑矢だ。合図の鳴り笛をつけた矢だった。あれが知らせるのは、敵の襲撃ではない。
妖だ。
戦があれば、必ず妖が現れる。人の負の感情に誘われ、人を襲うものとされる妖が合戦場に現われるのは、当然のことだった。
妖は通常の武具で排することができない。特別に清められた武具や修行を重ねた術者でなければ、妖に触れることすらできない。だがそれを持ってしても、多くを退けることは不可能だった。武具も簡単に作れるものではなく、大将やその周囲のものしか備えていない。
妖を多く清め祓えるのは、皇家の血筋だけだ。国を治めた皇家を失った後、覇権を争った家々が滅びて、皇家の血をひく神宮と飛田が残ったのは、当然の結果だった。
――皇家の血がなければ、国は妖に滅ぼされる。
来たか、と碧輝は覚悟を決める。怒号とは別の悲鳴があがった。兵が色めきたった。
「陣は御屋形様からあずかった護符に守られている! 恐れるな! 奴らは恐れに寄ってくる!」
詭弁と分かっていながら、声を上げた。
妖が寄ってくるのは恐れだけではない。憎しみに、苦しみに。戦が続く限り、増えはしても消えたりはしない。
それでも、守りの護符の存在を思い出し、兵たちは槍を握る手に力を込める。西の神宮家を守る主の存在を。
「東の鬼を廃せ!」
応、と一斉に声が上がる。
だが炎の勢いは衰えない。わずかの間に護符ごと陣は燃え落ち、碧輝と笹田は
出くわした敵や妖を倒し、ただひたすら逃げる。馬は火に驚き逃げ出して、周辺を守っていたはずの兵もほとんどはぐれた。
逃げ惑う兵の姿が、妖の姿が、炎の向こうに影のように映る。空気がとにかく熱く、息苦しい。汗がしたたり落ちる。夏の熱気にあおられ、火の熱にあおられ、視界が幻惑のように揺れている。
ごうごうと音を立てて燃える炎の中から、地響きのようなものがかすかに聞こえた。
碧輝は振り返り、刀を向けた。それと同時、炎と木々の間から、数騎の騎馬が駆け出してきた。立ちふさがる碧輝たちを見て、止まる。
一群の中に、違和感があった。敵意を向けてくる騎兵たちの中に、一人だけ、纏う空気の違う者がある。その者を見つけた目が、そこから離せない。
馬上の主の、白磁の肌が火に照らされて赤い。唇が、血を吸ったあとのように赤い。
額に白い鉢巻をして、結い上げられた黒い髪が、鎧代わりの白い衣装の上にたらされている。戦に参戦するつもりなどないと言うような白い衣装は、舞や楽を生業とする者のようだった。
熱気にあおられ、ひらひらと揺れるのが、妙に優美で蠱惑的だった。ひどく場違いだ。
けれども、彼が纏うならば、無骨な鎧だとて、同じような印象を与えるだろう。蛾眉をひそめ、不機嫌に下界を見る、作られたかのように美しい顔。
「――飛田……!」
笹田がうめくように声を上げる。影武者を見た時の笹田の反応が、碧輝にもわかる気がした。
あまりにも違う、凄絶な威圧。
目の前のこの男は、手段を選ばず、あまりにも非道な方法で、敵も味方も同じように火にくべて、自分だけがのうのうと生き延びようとしている。嫌悪と怒りが身の底からわきあがってきていた。刀を握り締める手に、力がこもる。
「殿!」
飛田の騎兵が叫んだ。彼らの横手から黒い妖が数体、炎をかいくぐり近寄ってくる。
人のような姿をしているが、靄のような、黒煙のようなものを纏っている。額には角が生えていた。ボロボロの刀を引きずりながら近づいてくる。
思わず碧輝は、馬上の人を見る。飛田晟青は、こちらに向けていた目をゆるりと巡らせて、妖を見た。
「くだらん」
一言、謡うようにつぶやく。
その目線、その言葉。それだけだった。おぞましい気配を放っていた妖が、自ら纏う黒い煙に包まれ、かき消えた。
飛田の家臣が翻意を抱いていたとしても、彼を失うことを恐れるもう一つの理由。
美貌の誉れ高い飛田家。そのの家系において、随一と言われるその美貌と同様に、禍つ祓いの力も、かつて無いほどに秀でていると言われてきた。
まるで見せつけられるようだ。その存在を。その値打ちを。
だが碧輝は、刀を握る手に力を込めた。
今彼が目の前の妖を消したところで、戦地のあちらこちらで妖は現われ、兵たちを襲っている。戦がある限り、人がいる限り。
自らの兵を炎にくべて、妖に襲われる者たちを見捨てる施政者など認められない。彼自身が、妖を増やしている。
ここで防ぐ。ここで倒さねばならない。この、東の鬼を。自らの主のために。
けれども碧輝の目の前、飛田との間に立ちふさがる人馬があった。
その主君とは対照的に、黒に身を固めた長身の男が、馬上から碧輝を見下ろしている。華美さを捨てた、頑強な鉄の鎧をまとう男。余裕にあふれる笑みを浮かべた偉丈夫。大きな槍を軽々と片手で携えている。
飛田当主の傍に常に侍る、飛田家副将。
当代一の誉れも高い、猛将。その姿を見た途端、碧輝は、生き延びられるものではないのを覚悟した。それでも、刀を握る手が緩むわけなどない。
「遠野殿、お逃げください!」
眼前の敵を睨み身構える碧輝の前に、笹田が割って入る。
「あなたは、戻って緋華様を支えなければならない人だ。
――しかし。
主の名に、碧輝はためらった。
将を残すことよりも、敗戦よりも、彼が支えるべき人の元に帰るべきだと、心が叫ぶ。だが、しかし。
小具足姿の笹田の背を見て、再び馬上の鬼を見上げる。炎にあおられ、この世のものではないようなその姿。
そして自らの主を思う。桜姫と呼び親しまれる、少女を。
ただただ、主がここにいないことだけが救いだと、痛切に思った。
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