2話 花の下にて

     ※



 七年前、一人の男が死んだ。

 ようよう蕾をつけ始めた白蛇の城の桜の下で、静かに息を引き取った。

 病で床についていたはずが、どうして、いつの間にそのような場所にいたのか、誰も気がつかなかった。ただひとり、彼の妻だけがその死を見送った。

 騒ぎ立てるのを好まず、生を望み、花を待ち望み、そうして儚く散った。


 三十をいくつか越えたばかり、治世において称えられた飛田の当主の死で、すでに国を二分し緊張状態にあった神宮と飛田の間に戦慄があった。

 飛田は同族殺しの家系だ。権力のためなら身内をも殺した。そのおかげで先代とその前の代の頃には、ほとんど血筋がなかった。

 人は死に絶え、銀夜の母で晟青の乳母であった人も、晟青が子供の時に死んでしまった。

 結果、たったひとりになった少年は、東の飛田家を背負う重責を遺されていた。わずかに残された皇家の血という、禍つ祓いの責務と共に。

 力で奪う世だ。守ってくれる人など誰もいない。

 飛田の冴えた城内は、武家として規律正しくあったから、子供が口を出す場などなかった。だから晟青はそれまで口を閉ざして、大人に逆らうことのない、おとなしい子供だった。でも、だからと言って何も見ていないわけではない。

 飛田の重臣である晟青の外祖父が、事あるごとに父と対立しているのを知っていた。


 正室であった母はすでに亡い。

 だから三島の祖父が飛田の家中で強くいられる理由は、孫である晟青がいるからだ。そして跡目争いの最中さなかに、父を擁したから。祖父の手によって父は飛田の当主に押し上げられた。だが、彼らは共謀していたわけではない。

 父が死んだ後は、祖父が幼い晟青を推し立て、己がすべてを手に入れようとするだろう。それは誰の目にも明らかだった。

 ――だから、当主の死には毒殺の噂まで流れた。


 ずっと横から見てきた。だから、動き回る大人たちの真意も透けて見える。

 父は晟青の烏帽子親に、堀内を選んだ。それは三島と対抗し得る臣だったからだ。その娘と晟青の婚姻で、三島の影響を断とうとした。

 しかし、晟青を守ろうとしたのか、飛田を守ろうとしたのか分からなかったが、彼亡き後、その思惑は空回りしている。三島と堀内の対立は大きく、このままでは内乱になりかねない。


 飛田の臣も、先代の死を悼みはする。

 だけどその義すら利用しているだけだ。晟青を物のように取引の道具にして、権力のおまけについてくる物のように奪い合おうとしている。


「くだらないな」

 晟青は白蛇の城の中、濡縁に座してつぶやく。庭の木々に緑の葉が芽吹き始めている。なのに、城内には寒々しい空気ばかりだ。

 酷く滑稽だ。

 これから先、いつまでこの光景を見ていなければならないのだろう。

 憂鬱で仕方がなかった。自分は当主を継いで、何をしたいわけでもない。皇家の血を持つ器でしかないのに。いつまで。

 ――死ぬまで、奴らの思い通りに生きなくてはならないのか。振り回され、引っ張り回されて。

 生き人形だ。

 息をして物を食う。生きている。だけど後ろから人形遣いが手を差し入れて、一挙一動、発する言葉すらも操る。

 誰も俺を見ない。

「生きている意味があるのかな」

 禍つ祓いのために殺されることはないかもしれないが、それは生きていると言えるのか。


「さあね」

 傍らから返る声は、人のしがらみに興味を持っていない。

「銀夜は、難しいことは分からない」

「ちょっとは考えろよ」

「考えても無意味じゃないの。これは」

 銀夜の言葉は、感情に振り回されないだけ辛辣だ。いつも事実を突きつける。

 だからといって、傷つきはしないけれど。銀夜はいつでも必ず晟青の側にいたから。


「お前、どうする?」

 問うと、彼は暢気に笑った。

「晟青の思うままに」

 本当の一人ではなかった。だけど、立ち向かうには彼らはあまりにも小さかった。そして体中に絡みついた倦怠感は、簡単には消えなかった。

 城の中で息をするのも苦しい。晟青は城を逃げ出し、そのまま白蛇を出奔した。


 自分がいなくなって、慌てふためく大人たちを想像するのは楽しかった。死んでしまえば、混乱は抑えられないものになるだろう。神宮に呑まれるなら呑まれればいい。

 そんな後ろ暗くも愉快な気持ちで逃げ出した。

 見つかって神宮に殺されるのもいいなと思いながら。

 そうして――



 桜花おうかにたどりついたのは、夕刻だった。城下は賑わっていて、人にあふれていた。桜は陽の光を浴びて、遠く見える桜花城の城内で、山中で、その膝元で絢爛に咲いていた。

 目立たぬよう、山中に足を踏み入れる。花霞に包まれて歩く上から、薄紅の雨が降る。花びらを透かして、暮れゆく日が見える。


 美しいところだと聞いていた。この世のものとも思えない絶勝の地だと。いかな咎人も涙を流さずにはいられないほど、心が洗われるような場所だと。

 だから、一度は来てみたいと思っていた。何もかもを捨てて、命すら危険に陥れてもいいから、最後に触れてみたいと思った場所だった。ここへ来るには、それだけの覚悟が必要だったのに。

 それは、晟青を救うものにはならなかった。

 明日は禍つ祓いの清め舞が行われるという。それを見れば少しは違うだろうか。思ったけれど、もう疲れてしまった。期待を持って待つことなどできなかった。


 疲れ切った晟青に城下の賑々しさは眩しく、桜の山は華やかで、息苦しささえあった。

 本当ならば、誰もが、自然の作り出す佳境と、これを守り築いた人の技に感嘆するのだろう。

 だけど晟青には、どこか悲しかった。桜を待ち望んで死んだ父を思い出すからかもしれない。わずかに蕾をつけたばかりの、寂しい桜の木の下で、芽ぶきの季節を待たずに死んでしまった、父を。

 そして人々の賑やかさは、そこからはじき出された自分を思うからかもしれない。

 己の心の足りなさを、境遇の虚しさを見せつけられるようで切なくなる。望んでも何も得られない、望んでも受け容れられないのだということを。

 桜の雨は晟青の上に降り注ぎ、包み込む風景は目には映っても、心の真奥には届かない。


 くたびれてしまって、晟青は桜の大木の下に腰をおろした。そうして、日が沈むのを見ていた。

 透けるような桜の花びらは、赤く燃えるように輝き、空は紫に染められていく。やがて天に星が瞬き始める。

 桜の山の夜の静寂は、日の元の華やかさとは違い、ただ寂しく切ない。春の風は冷たくて、身を刺すようで、白い息が漏れた。動く気になれない。

 そして晟青は、睫毛をおろして瞳を閉じる。

 眠りが訪れるのを待った。父と同じように、二度と目覚めないように願いながら。

 父親の気持ちを分かりたかったのかもしれない。自分を残して去って行った寡黙な父が、どうしてその場所を選んで、死んでいったのか。

 同じように自分も去ってしまいたかった。意地のように、真似事をして。凍えて震えて、この美しい景色に溶け込んでしまうのを願った。眠るように死ぬのを待った。


 白蛇には死がある。

 そしてここにも確かに、死の静寂はあると思った。

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