3話 その手が掬い上げたもの

 ――ひとつ、ひかりのあまつたう


 禍つ祓いの数え歌が聞こえる。

 軽い足音が、木々の間を踏み分けていく。降り積もった花びらを踏み荒らさないよう、ゆっくりと彷徨うような、かすかな音だった。

 目を閉じたままの晟青の耳に忍びこんでくる。数え歌を歌いながら、その足音は近づいていた。


 ――――来るな。

 瞼を押し上げるのも億劫で、ただ念じた。ひとりきり、目の覚めない眠りに落ちるのを待っているのに、誰かが邪魔をしようとしている。

 あちらこちらにと舞うような足音は、歌いながら晟青の元にやってくる。立ち止まり、少しの間があった。


「どうしたの」

 そっと声をかけられた。囁くような声は、少女のものだった。なぜ、こんなところに、こんな夜更けに子供がいるのか。

「ねえ、ここでなにしてるの? ひとり?」

 面倒な。心の中で悪態をつく。

 答えたくない問いだった。晟青は、ただ眉をしかめて黙っている。答えずにいれば、飽きてどこかへ行ってくれるだろうか。

 けれど、人の気配は留まったまま、遠ざかる足音も聞こえない。

 あきらめて、つぶやく。


「……ひとりだ」

 言葉にするとそれは実感を持って、心に落ちた。

「誰も一緒に来なかったの? こんな夜更けに?」

 自分もひとりで夜の山をさまよっていたくせに少女は、無垢な問いをぶつけてきた。

「誰もいない。誰もいらない。俺の勝手で、誰も巻き込まない」

 嘘をつくのも面倒で、放っておいてくれという気持ちをこめて応える。

 その時、枝を揺らして、ひときわ強い風が、木々の間を吹き抜けていった。


 不意に肩にぬくもりが触れて、晟青は思わず顔をあげた。隣に暖かい気配がある。身を寄せるようにして、晟青の隣に膝を抱えるように少女が座っている。白い小袖が夜の藍色に浮き上がるようだった。

「寒いね」

 少女は鼻の頭を赤らめて、白い息を漏らして笑った。月の明かりに照らされて、てらいもなく笑う少女だった。優しい茶色の瞳は真っ直ぐに晟青を見た。

 無垢な眼差しを受けていられなくて、晟青は目をそらした。


「ねえ知ってる? ここの桜は、贈りものなんだって」

 それに構わず、少女は語りかけてくる。

「昔、ここに桜のきれいなお屋敷があってね、そこにきれいな姫君がいたんだって。姫君が亡くなった後に、残された人が、思い出にここを桜でいっぱいにしたんだって」

 そして少女は、頭上に広がる桜の花を見上げる。

「大好きな人へ、大好きだよっていう思いをいっぱいに込めた花なんだって。だから、こんなに優しいのかな」

 晟青はつられて、桜雲おううんを見上げた。霞のような桜の花が、頭上を覆っている。花びらの隙間から、朧月が見える。静かに花びらは舞い続けている。


「どうしてひとりでここに来たの?」

 無邪気な声は、再び問いかけてきた。晟青は皮肉に唇をあげて笑う。

桜花おうかの桜を見ずして生を語るな」

 それは、この土地の桜を称える言葉。日の元で見た桜は、生を語るにふさわしい華やかさだった。

「ずっと見てみたかった。ここの桜は、心が洗われるくらい、きれいだって聞いてたから。どうせ死ぬなら、きれいな場所がいいと思ってた。ここに座って、死ぬのを待ってた」

「どうして」

 哀切に満ちた声が言う。

「どうして、死なないといけないの」

 そんなの。晟青だって分からない。本当は、いいわけがない。そんなの。


 晟青はまた、ため息をつく。

 ふいに、桜の根元の空気が黒く濁った。

 まただ。木の虚から、骨張った小さな土気色の手が伸びた。幹を掴む。頭に角を生やした、幼子のような妖が、姿を現した。

「どうして……」

 思わず少女が声を漏らした。恐怖にか驚きにか、動けないようだった。

 晟青は気だるく小鬼を見て、眉をしかめる。

「ずっとついてくる。ここに来ればいないかと思ったのに」


 やつらは行く道々、どこにだって現われた。

 清め守られているはずの神宮の居城の膝元で、祝いの花の舞うこの山にまで。

 皇家の血だって、負にとらわれれば妖に狙われる。人々が皇家の血筋に希望を見いだすのすら馬鹿馬鹿しく思えた。どれだけ抗ったところで、国は妖に穢され、いずれ墜ちていくのかもしれない。

 どす黒い瘴気を放ちながら向かってくる小鬼に、晟青は呆れ、諦め、手を振り払った。

 袖にあおられ空気が揺れる。指先が、小鬼に触れるか触れないか、淀んだ空気が消えた。そして幻のように小鬼の姿も消える。

 驚き見上げる少女の目を見返して、晟青は皮肉に笑った。


 こんなもの、気休めだ。こんな力、晟青自身の一部でしかない。皇家の血はたしかにこの国にとって、飛田の臣にとって重要なものだろうが、晟青のすべてではない。

「俺は、俺なのに。俺の周りのやつらは、俺のことなんて見ていない。俺はどうやって生きたらいいか分からないんだ」

 言ったところで意味のないことなのに。意味のない相手なのに。

 知りもしない相手、出会ったばかりの、ただすれ違うだけの、もう二度と会うこともないであろう相手なのに。

 言葉がこぼれるのはどうしてだろう。


 誰かに聞いてほしかったのかもしれない。ただ、それだけなのかもしれない。自分の心を吐露して、このどうにもならない思いを、状況を、訴えたかったのかもしれない。

 今まで誰も、彼の周りの誰もが、彼の思いなど問いかけはしなかった。その思いがどこにあるのか問うて、解ろうとはしてくれなかった。


 少女は突然立ち上がった。

 身をひるがえすと、晟青の前に立ちはだかるようにして、しっかりと晟青の目を見て言った。


「死なないで」

 どこか怒っているようにも見えるくらい強く言葉をつむぐ。言い聞かせるように。

「わたし、あなたのこと見てるよ」

 せっかく会えたのに、と惜しんでくれた。

「誰も一緒にいてくれないのなら、わたしといればいい」

 思いもかけない言葉に、強い声に、晟青は目を瞬いた。


 今までいったい誰が、自分の命を、名前の器ではない、操り人形でもない自分の命を、望んでくれただろう。一緒にいればいいと言ってくれただろう。

 晟青の眼差しを受けて、少女は嬉しそうに笑う。

 そして、ためらいもなく、まっすぐに手を伸べる。何者かもわからない相手に。

「この桜の山が、神宮かみやが、あなたを守るよ」


 裏切ることを知らない、裏切られることも知らない、無垢な言葉と瞳だった。幸せにくるまれて、慈しまれているのがよく分かる、優しい笑顔だった。

 少女は、神宮、と口にした。

 領主を呼ぶような口調ではない。まるで己自身がそうであるかのように言った。

 月明かりに流れていく飛花の中、たたずむ少女を見て、晟青はひらめくように思った。


 ――――飛花ひか

 舞い散る桜の名前の、桜姫と愛称の姫君が、神宮にはいなかったか。人々を優しく照らす、鮮やかな華であれと願われた姫が。

 ――ああ、そうか。

 ここは、神宮の本拠地、その自慢の桜の山。

 瞳を瞬いて、晟青は少女を見る。無垢なその笑みを。

 羨んで、妬んでもいいのかも知れない。自分とはあまりにも違う。晟青は、そんな風に誇りを持って、飛田の名を呼べない。

 たけど少女は、孤独な少年をただ哀れんで、惜しんで、優しさをくれた。


 陽の元で華やかに咲き誇っていた桜は、賑やかさの成りをひそめている。月明かりの元、ただ静かに花を降らしている。

 大好きだよとの思いのこめられた花。亡くなった思い人の名残を惜しんだ、涙雨のような桜の花びら。だから夜の桜はこんなにも静かで、切ないのだろうか。

 亡くなった人の死を悼むのは、痛むのは、生を望むからだ。共に生きることを、望むからだ。

 だからこの地の桜は、こんなにも人をひきつけるのか。

 晟青は、思わずつぶやいた。

 ――いわいのもとに、まがつけあれはあらじ

 花冷えの風が、遊ぶように吹いていく。それが通り過ぎるのを見送って、うん、と晟青はひとつうなづく。

「ありがとう」

 少女が迷いもなく伸ばした手は、晟青を待っている。躊躇いながら、その手を取った。冷えた指先に、少女のあたたかな手は、じわりとしみた。凍えきった心すら、包み込んでくれるようだった。

 しあわせだと思った。

 これが、幸せというのだと思った。


 動こうとすると、体は冷えて強張っていた。少女の手にすがって立ち上がる。晟青の上に降り積もっていた桜の花びらが、音もなく舞いあがった。

 座り込んでいる場合ではない。

「俺、もう少し、生きてみる。――君のために、がんばってみる」

 晟青はただ微笑んだ。

 もう悲しくはない、自分を哀れんだりもしない、ただ穏やかに誓った。

 ――――この小さな手。

 あたたかくて、やわらかなこの小さな手を、守りたいと思った。

 決意を込めて、強く息をつく。白い息が、夜の中に泳ぐ。


 少女はちいさく首を傾げた。晟青の言葉の意味など解らなかったはずだ。だけど、にっこり笑って頷く。

 その笑顔に向けて、晟青はゆっくりと言った。

「またいつか、会えるかな」

 会えるはずもない。言いながら、分かっていた。

「またここで一緒に、桜を見てくれる?」

 月明かりの元、零れ桜が、少女の上に降りかかる。その佳景を、目に、心に、焼き付けた。


 これは願い。

 ただの、願いだ。

 満開の桜も少女も、もう二度と手に入れることのできない、優しい時間を与えてくれた。

 例え生き延びても、こんなに静かな空間で、やわらかく微笑んでいることなど、もう出来ないだろう。晟青は苦しみから逃げ出してここに来たのだから。

 ちゃんと分かっていた。

 だからこそ、その先も生きて行くためのしるべが欲しかった。暗い道を照らし出してくれる灯火が。血の道を歩いていくための誓いに。何があっても前を向き、這いずってでも先へ進むために。


 例え約束をしても、果たされることのないものだと知っていた。

 だけどいつかまた、この優しい時間を過ごす日があるのかもしれないと思うことは、彼にとって救いだった。

 だから、これは約束ではなかった。

 ただ、たったひとつの、願い。

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