絵に描くようにトリコロール
高田教授の研究室に入ることになった。
Happy: 会いたい
たった一言。
当然に僕と将来のことについて話し合いたいという意図だろう。そして僕が幸田さんに絵描きになりたいと伝えたこととも決して無関係ではないだろう。
会合の場所を選択するに当たってかなり迷ったけど巣鴨にした。
階段を地階に降りた駅前の、コーク・ハイをメニューに持つ店。けど僕はこのタイミングでアルコールを入れる度胸などなくもう店に来ていた幸田さんの前に座ると大学生アルバイトのウェイトレスにブレンドを注文した。
カッ、カッ、カッ、と階段をまた新たな客が降りてくる。その客はウェイトレスが控えるカウンターの前を曲がりざまに注文した。
「コーク・ハイ」
そのまま僕と幸田さんのテーブルを通り過ぎて隣のテーブルへ。そして僕の座席の真後ろに座り背中合わせになる。
「気にせず続けて」
佐藤だった。
幸田さんは全く動揺する風でもなく完全に背中を向ける佐藤にも聞こえるように話し続けた。
「給与水準は高くないけれど研究予算をものすごく潤沢に割り当てられてるの。それで研究成果に応じてわたしたちの報酬に加算される」
「それはすごいね」
「だから
「現金ね」
佐藤は完全に単語の用法と向ける相手を間違っているけど誰も指摘しない。
できないんだ。
「佐藤さん。佐藤さんは真中くんの生活を支えることができるかしら?」
「・・・できる!」
佐藤のことだから最後まで聞かないと評価できない。背後からの声に耳を傾けた。
「おかずいっぱい作ってあげる」
そんなことだろうと思った。
「佐藤さん、預金てどのくらいあるの」
「えっ、預金?」
「重要なことよ」
「預金、預金・・・よーきん」
歌い出しちゃったよ。
「そ、そこそこの金額です・・・」
「いくら?」
幸田さんの圧力が思いのほか強い。よっぽど自分自身の預金残高に自信があるらしい。
ただ幸田さんは社会人となってから一年も経っていないのに・・・
とうとう佐藤が屈した。
「ご・・・50万円」
「500万円」
幸田さんの回答に佐藤が軽くコーク・ハイを、ブホッ、と飛沫を飛ばす。
僕も驚いた。佐藤の堅実さにも感心したけど幸田さんの500万円というのはあり得ない数字のように思えた。一体どうやって。
「子供の頃から貯めてたの」
幸田さんの話によれば子供の頃にお年玉を無駄遣いせずに貯金しようとご両親が指導してくれて以来趣味のように貯めてきたのだと言う。お父さんが証券会社にお勤めなので資産運用の手ほどきを受けたことも。
幸田さんは更に具体的な話をする。
「部屋をシェアすれば真中くんは一年か二年ぐらい絵に専念できるよ」
「こ、幸田さん、それって同棲・・・」
「佐藤さん!」
「は、はいぃ!」
幸田さんの突然の大声に佐藤は畏った。僕も驚いた。
「佐藤さんは、真中くんとそういう関係に?」
「え。えとえとえと」
いつかの土曜日の再現だ。
「ねえ、どっち?あなたが答えないのなら真中くんに訊かなきゃいけなくなるわ」
「幸田さん。佐藤と僕とはなんでもない」
初めて幸田さんが僕に新月のような細さの視線を向けてくる。
僕は身構えたけど直撃された。
「真中くん。わたしは処女よ。なぜなら真中くんに抱かれてないから。そして真中くんの返事次第では永遠に処女よ」
幸田さんは逃れようのない攻撃を僕に仕掛けてきた。
「わたしは真中くんのためにドラッグストアを辞めたのよ。それで高田教授の下に移ったの。真中くんのためよ。真中くんが本当に好きなことをやって生きていくためよ」
もう一言、添えた。
「責任、とってね」
ト、ト、ト、とまた階段を降りる音がする。そのお客はこの喫茶店の来店年齢の最年少をおそらく更新しただろう。それだけでなく、こういう店に来るはずのない容姿の少女が地下世界へと降りてきた。
まるで天使の降臨。
Grilちゃんだった。
「・・・どうぞお話を続けてください」
Girlちゃんは僕の手前のテーブルで幸田さんと背中合わせにシートに滑り込んだ。彼女はまっすぐ壁を見つめる。そこに小さな額に入った絵が掛けられているのだ。
僕の描いた、コタローの絵。
佐藤はオリジナルのコタローを目つきが悪いと評したけどGirlちゃんは下から睨め上げるような子猫時代のコタローの絵を「かわいい」とつぶやいていた。
会話の再開は意外にも佐藤だった。
「Happyさん」
「なに?Sugarさん」
「あの灯台の絵の女の子は、やっぱりHappyさんだと思う」
「ありがとう。慰めでも嬉しいわ」
「ううん。そうじゃないの。聞いて?MidとHappyさんの子供の頃からのつながりには余人が割り込めないような事実がある。その・・・キスした話なんか、誰もこんな恋愛小説書けないだろうというエピソードになると思う。そう考えたらわざわざ実家に帰省して丘に登って灯台を観たってことは、Midは最初からHappyさんを描くつもりだったんだよ」
「やっぱりありがとう、Sugarさん」
「でも、それだけだよ!」
佐藤の思わぬ鋭い声に今度は残りの3人が驚いた。
「Happyさん。その絵は大賞を獲ったけど、既に過去絵。Midはこれから未来のための絵を描いていくんだよ。そうでしょ?Mid?」
こじつけでしかない論旨にそれでも僕は反論できない。真正面に座る幸田さんは僕の目を見ているようで実際はすり抜けて佐藤のうなじあたりを凝視していた。
目を潤ませて。
「あの。わたしの描いた絵を見ていただけませんか?」
唐突にGirlちゃんが言った。
なぜ?
なぜ今そんなことを?
今度はGirlちゃん以外の残り3人がそう思ったけどGirlちゃんは幸田さんの隣のシートに移動してきた。佐藤は僕の背中側から皮張りのシートの背もたれを乗り越えるようにしてGirlちゃんの絵を覗き込む。
まるで絵ハガキのように描かれた絵。横向きに5人のコスプレみたいな衣装の絵が描かれていた。
ライブハウスでEvilさん、Happyさん、Sugar、Girlちゃん、僕が集合写真を撮ったその構図。それをイラストにして僕のSNSアカウントにアップしたのと同じ絵をGirlちゃんが描いてきたのだ。いつか僕に観て欲しいと言っていた自分の描いた絵。
驚いた。
「これ、Girlちゃんが?」
「はい。どうですか、Midさん?」
「すば、らしい」
僕は抱え込むように、けれども指紋をつけないように注意してその絵を観た。
それはPCとペンタブとアプリケーションを使って描かれたものだろう。
そして絵柄は、少女漫画にたまにある腰がとても細いキャラたちのやっぱり針のようにスレンダーな手足、そして胸が特徴の、漫画チックな絵だった。
けれども、芸術だと思った。
「Girlちゃん。どうやってこれを?」
僕が訊いたのは決して技術論なんかじゃない。道具や手法や過程がどうだとかいう問題でもない。
貴女はその若さでどうしてこんなに僕の心を、ぎゅう、とする絵が描けるんですか?
敬語で敬って訊きたいぐらいだった。
佐藤も幸田さんも、感じることは同じで、無条件に感動と底知れぬ才能を恐ろしくすら思っているようだった。
けれどもGirlちゃんの答えはそんな僕らの常識をも軽く超えていた。
「み、みなさんと逢えたから描けたんです。わたしの力じゃないんです。だから・・・だから・・・」
かわいらしい涙袋からじわりと一滴溢れさせた。
「子供だと思って下さって結構です。ただわたしはみなさんと今しばらく、仲良く、この愛おしい毎日を一緒に過ごしたいだけなんです」
誰もが何も言えなかった。
Girlちゃんはダメ押した。
「それが、わたしの願いなんです・・・」
Girlちゃんに免じて、という表現が正しいかどうかはわからないが、僕たち三角関係の当事者は一応仲直りした。
その印として喫茶店から出た後コンビニでややリッチなアイスを食べた。
僕のおごりで
「うーん。冬にアイス!体をいじめないとね」
「Sugar。表現が変だぞ」
「へっへっへっ。昔先輩がお腹壊した時にアイス食べて治したのさっ!」
「なんだその先輩」
「うらやましい・・・」
「えっ!?Happyさん、お腹痛いの?大丈夫?その先輩特異体質だったから真似したらもっと痛くなるよ?わたし薬持ってるから・・・」
「ふふふ。やっぱりSugarさんていい人。だからこそうらやましい。あなたとMidさんの関係が」
Girlちゃんもかなり高度な会話を挿入する。
「HappyさんはMidさんの正式な恋人なんですから、ドーン、と構えててください」
「Girlちゃんもいい子ね・・・」
「それに引き換え・・・」
佐藤が僕をジートーとした目で睨めつける。
「Midは優柔不断で思わせぶりでとんでもないチキン野郎だ!」
「ほんとだな」
僕は佐藤に言い返すことができない。
そして今日は誰も否定しなかった。
幸田さんがGirlちゃんを送ってくれることになった。美人が揃って却って心配な気もするがこの才能溢れるふたりの交流はお互いにとってとてもよいことだろう。
「じゃあね真中」
佐藤も今日は僕を突き放すようにして自分の部屋へ帰って行った。
明日から三連休だ。
僕は出かけることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます