絵に描くようにパンデミック

 非常事態だ。


 この世界が僕と佐藤さとうだけになってしまった。


「はい!ロットNo.B-125ですね。え?それを今日の午後イチにですか?」

「申し訳ございません、資材購買部は全員不在にしておりまして・・・」

「佐藤!」


 電話で『不在』というぼかした表現を取引先に対して使う佐藤に僕は横から口出しした。


「相手もタイムリミットがある商売だ。普段の有給休暇ならともかくこうなってしまってはこちらの状況をはっきりお伝えすることの方が親切だし、それが義務だ」


 うん、うん、とうなずく佐藤。そのまま電話でお客様にこうお伝えする。


「実は、資材購買部全員インフルエンザに罹患しまして今週いっぱいは対応が難しくなります・・・はい。あ・・・キャンセルですね。かしこまりました・・・」


 零細企業はこれが怖い。

 どれだけBCP(事業継続計画)に基づいてリスク回避を行ったところでそもそも社員の絶対数が零細だ。健康管理にはもちろん個々人が十分に注意しているが生身の体である以上起こりうる事態だ。


「・・・加湿器も入れたのにね」

「仕方ないさ。とにかく可能な限りの対応をしよう」

「うん。真中まなか

「なんだい」

「死なないで」


 ほんとにいい根性してるよ佐藤。


 社長が緊急会議を招集した。


「よく生き延びてくれた」


 社長も中二病か・・・

 まあ、全社員の内15人がほぼ同時に発症して出勤可能なのはたったの5人だからな。

 でも経理課の大ベテラン田代さんが生き残ってくれたのはほんとにギリギリの生命線だった。営業部や資材購買部は新たな受注を受けなければなんとか最低限の既存オーダーを履行できるが、間接部門の要の資金繰りや伝票処理が滞ったら僕たち現場の人間ではカバーに大変なエネルギーを使うこととなっただろう。


 そして社長からの指示は簡にして潔だった。


「死ぬな」


 佐藤と同じだ。


「手洗いうがい頭寒足熱」

「加湿保湿水分補給」

「のど飴コロコロ潤いを」

「ちょっと待った」


 僕は提案した。


「マスク着用は全員義務化しましょう」

「まあ、そうね」

「うん。真中くんの言う通りだわ」

「それで、ガムを噛みましょう」

「えっ?ガムを!?」

「はい」

「いやー、それって・・・」


 みんな躊躇する。

 それはそうだろう。マスクまではこの時流で却って顧客を慮る対応だと捉えてもらえても、ガムを噛みながら相手と話したり応対するというのは抵抗があるだろうし、実際礼儀を欠くかもしれない。それでも僕は主張した。


「ガムを噛んで常に唾液で喉を潤すことが免疫力を高めてインフルエンザの予防には極めて有効です。これは僕の経験則ですが」

「分かる。分かるよ、真中くん。でもやっぱり、ねえ・・・」

「ガム宣言しましょう!」

「ああん?」


 佐藤の一言で決まった。


「会社のブログに『わたしたちガム噛んでます!』って告知するんですよ。んで、『人員が限られる折、ご理解ください』って。それで、真中!」

「なんだよ」

「バッジのデザイン大至急で!」

「バッジ?」

「そう。『ガム噛みバッジ』業務時間中は常に胸につけておいてお客様にアピールするんだよ」

「うーん。なるほどな」


 そういうことで僕らはひょっとしたら勤務中のガムを完全解禁した初めての日本企業かもしれないと自負しつつそれからの数日間を仕事に明け暮れた。

 ところが。


「真中、なんかきそう」

「えっ。寒気とかするのか」

「なんかね。喉の奥が痒いような乾燥したような感じになってきちゃった」


 まずいな・・・僕もそういう発症しそうな雰囲気というものがなんとなく分かる。だが、今ここで佐藤に倒れられてはウチの会社はもはやアウトだ。

 冗談ではなく、本当にこれをきっかけに業績と資金繰りが悪化して倒産なんてことになりかねない。


 最近色々あって少し疎遠になってたけど、僕は電話をかけた。


『はい。幸田こうだです』

「真中です」

『・・・こんにちは。元気だった?真中くん。今日はSNSじゃないのね』

「幸田さん。実は頼みたいことがあって」

『なに?』

「インフルエンザの薬を処方してくれないかな?」

『えっ。医師の処方箋はあるの?』

「ない。まだ罹患したかどうかも分からない。でも発症したら正直ウチはもう仕事にならないんだ」

『誰が危なそうなの?』

「佐藤」


 幸田さんが自分のドラッグストアの営業車であるコンパクトカーでウチの会社まで急行してくれた。そのまままるでパンデミックに対応する国境なき医師団みたいに白衣で颯爽と社内を歩いてくる。


「真中くん、例のものは用意してくれた?」

「うん。ここに」


 僕が幸田さんから指示されたのはカセットコンロ。


 それから、魚を焼く金網。


 赤唐辛子。


 赤唐辛子は幸田さんが自分が勤めるドラッグストアの食料品販売部門から大量に調達してきた。

 幸田さんは、金網に赤唐辛子を山盛りにして点火した。


「ヴェッ!ゲホゲホゲホ」

「ゴッホ!うえー!」

「我慢して!」


 唐辛子を焼く煙が事務所に充満する。

 そして、これがまあ目に滲みる。


「うう・・・な、涙が」

「鼻水が・・・」

「の、喉がしびれるー!」


 カプサイシンが煙に乗っかるのかどうかはわからないけど、窓を閉め切って唐辛子の辛味が事務所じゅうに充満するような感覚がした。


「幸田さん。これってほんとに殺菌効果があるの?」

「真中くん。有る無しでいったらあるはず、としか言えない」

「はず?どんな科学的根拠が?薬剤師としての見解とか?」

「家族全員が風邪ひいた時、祖母がこうしてくれたの」

「あっ・・・そうなの?」

「うん。風邪の菌を体と家から追い出すんだ、って。真中くん!」

「は、はいっ!」

「じゃんじゃん焼いて!」


 通報された。

 しかも、消防にじゃない。


「あーあー!私、警視庁警備第一課の金谷と申します。我々は誠実に交渉に応じる準備があります。まずは内部の状況を教えていただきたい!」


 二階の窓から会社の玄関を見ていると5分ほどの間にパトカーが10台ほどに増えている。その上で制服姿の警官がマイクでこちらに語りかけている。


「佐藤!ネットニュースは!?」

「うん、よっと・・・げっ!!」

「どうした!?」

「『池尻大橋で激しい刺激臭と白煙が住宅街に充満。発生源と見られる建物内には白衣を着用した研究員らしき人影が。バイオテロの疑いがあります。近隣住民の皆さんは出来る限り外出を控えてください』ど、どうしよう。テロリストにされちゃうよ!」

「と、投降しよう」

「無理よ」


 幸田さんが指差す。


「銃口がわたしたちに向いてるわ」


 結局誤解は解けたのだが、パトカーが二台残留し、事情聴取だけしないといけないので警察署に任意同行して欲しいと言う。

 これに対し社長が窓を開けて大音声でのたまった。


「流行性感冒に罹患しおる懸念あり。感染の責任は委細持ちかねまする!」

「・・・わかりましたあ!どうぞ民間療法に頼らず、医療機関をご受診くださあい!」


 幸田さんが膝に頭がくっつくぐらいに深々と頭を下げた。


「すみません!わたしのせいで皆さんに大変ご迷惑をおかけしまして!」

「こ、幸田さん、顔を上げて?」

「佐藤さん・・・」

「誰が悪いわけでもない・・・インフルエンザが悪いんだよ!」

「幸田さん、ありがとう」

「真中くん・・・」

「お陰で全員死なずにすんだよ」

「ええ・・・ほんとに死ぬところだったわね」

「幸田さん」


 おっ。

 社長のか。なにか深い教示に違いない。


「感冒により売り上げ激減!受注を乞い願う!」

「えっ!?は、はい?」

「頼みましたぞ!!」

「は、はいっ!!」


 全員、ギャグじみてきたな。

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