第2話 朝の流れの中で

 男はペンを置き、書き上げた原稿の端を机で打って揃えた。男の名は綾小路。作家である。目を上げれば、カーテンの隙間から朝の光が差し込み、資料の本が散乱した部屋を浮かび上がらせている。

「う~」

 大きく伸びをして、綾小路は一仕事終えた解放感に浸った。

 齢四十。だんだん無理がきかなくなってくる年齢である。それでも綾小路は今回も首尾よく脱稿したのである。気分がよかった。腰の痛みを感じるも、ひとつ朝の散歩に出よう、そういう気になったのだ。

 外に出ると、冷え冷えと冴えた朝の空気を深く吸い込み、そのまま気の向くままの散歩に出た。二車線の道路に出ると、その歩道には登校する小学生の姿がちらほらと見えた。

「おれにもこんな頃があったか」

 一人ごちる。時間というものの不思議さ。それが綾小路の作家としての感性に触れた。そのまま深い瞑想へと入っていく。

「ちょっと、あなた」

 唐突に綾小路は誰かに呼ばれた。瞑想の世界から現世へと戻ってきた綾小路はあたりを見回し、そして交通誘導員の緑のジャンパーを着た老婆を見出した。老婆は怪訝そうに綾小路を見ている。無理もない。無精ひげを生やしTシャツを一枚及んだだけの中年男が道の真ん中で腕を組んで突っ立っているのである。不審に思われるのも無理はない。綾小路はすぐにそのことに思いを致し。

「や、失敬」

 そう言って、また再び歩き出した。しかし綾小路はすぐに行き詰った。登校する小学生の数が増加したからである。綾小路は再び道の真ん中に棒立ちになった。

「やむを得ないな」

 綾小路はすぐに覚悟を決めた。そして小学生たちの作る流れに身を任せた。歩みを進める小学生たちは気づいているのだろうか。その一歩一歩がそのまま未来への歩みであると。ここに時間の不思議さがある。

「そしておれもまた、流されている」

 時間は皆に平等に流れる。綾小路はそれを実感した。つぶやいたその一言に小学生の一人が綾小路を見た。しかしすぐにまた前を向いて歩き出した。

「この子たちは知っているのだろうか」

 そう、この子たちは知っているのだろうか。この先にあるものを。未来を。いや、今はまだ知るまい。しかしいつかはそれに直面する。そのときにうろたえずに済むように、彼らは勉学を積んでいるのだ。その一つの事実に、綾小路は圧倒される思いであった。時間とは、人生とは、未来とは。それは不思議なものである。作家としての人生をかけて取り組む価値がある。綾小路にはそう思えたのだ。

 そしていつしか綾小路は近所の小学校へとたどり着いていた。

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