第3話 接点
伊地知正孝は歯を食いしばった。いなくなってしまったのだ、彼の子が。といっても肉体を持つ子ではない。それは精神体、それは彼の作品、それは彼の小説の登場人物であった。
彼は今日まで考え続けてきた。一年ほど前から今日までずっと。ただひたすら、その小説のことを考え、考え、考え続けていたのだ。
しかし、そのキャラクターはなかなか彼に心を開かなかった。どんなに考えてもそのキャラクター――仮に花鈴(かりん)とでも呼ぼう――は彼に心を開くことなく、彼にいくつもの話の筋を作らせ、大量の並行世界を彼に背負わせていた。
いわゆるシミュレーションゲームであるならば、いくつかのルートがあってもいい。しかし、これは小説である。最終的には一つのルートを定める必要があった。にもかかわらず、花鈴はその必要性をまるで認めず、気まぐれに世界を歩き、いくつものルートが成り立つことを示し、彼をまさに締め切りブッチの瀬戸際まで追い詰めていた。
だが、ついにそのときは来た。伊地知正孝が己の死期を悟ったのだ。死の運命を受け入れたのだ。そして伊地知正孝は、紙にペンで書くという古風なライティングスタイルで、現在が過去になっていく瞬間を一つひとつ丁寧に押さえるようにして積み重ね、そうしてたった一つしかない未来をついに探り当てたのである。
その瞬間、それは起こった。突如として、花鈴が彼に心を開いたのだ。伊地知の頭の中に、花鈴の想い、心、考え、すべてが流れ込んできた。ついに抱きしめた自分の娘に伊地知は有頂天になった。読める、読めるのだ。花鈴が何を考えているのか。彼は嬉々として心情描写を綴っていく。まるで自分と花鈴が一つになったかのように。花鈴が彼の中にいて、彼に自分を書かせていた。すべて、そうすべてを。
有頂天の中、法悦の中、彼は書いた。書いた。書いた。そして書き終えた。そのときの達成感。汗まみれになって、目の前にいる自分の愛しい娘を、花鈴を見た。花鈴は彼に微笑んだ。そしてふっと消えてしまった。
彼は寝た。そして起きた。花鈴はどこにもいなかった。否、彼女は小説の中にいた。しかし、すでにして伊地知正孝とは何の接点も持たない存在になっていた。彼女はひとりの女性として自立し、そこにいた。
「花鈴、どこだ? 花鈴、どうした? 行ってしまったのか、自然の流れに乗って。運命があの子を運んでいったのか。生まれてすぐに連れ去られたのか。俺は彼女とこの世界とを結ぶ道、ただそれだけの接点だったのか」
男は女の胎(はら)に種を蒔いて去る。しこうして芸術は男の胎にも種を蒔くのだ。
「あの子と俺が関わったのは短い間だった。創作の激痛、一瞬の包摂。おお、あの一瞬こそが、俺とあの子のすべてだったのだ!」
伊地知正孝は泣いた。泣いて、泣いて、そして原稿を抱きしめた。
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