第7話 曇天
曇り空の下、繁華街を歩いていた。前を歩くホームレスらしいおじさんの尻のあたりから饐(す)えた匂いが漂ってくる。何かにひっかけたらしく、シャンパーの肩口がほころびている。なぜ生きることはこんなにつらいのか。住む家があるだけマシなのか。遠い昔、漫画で見たフレーズ「みんなで笑い合える未来」とは何なのか。そもそも「みんな」とは誰のことなのか。
取引先のオッサンは今日もよくしゃべった。仕事の話もそっちのけで、自分の過去のやんちゃなどを。若いころだったら、少しは驚きを持って受け止めていたかもしれない諸々。ただ人生の曲がり角にきて、自分の過ごしてきた過去の時間が圧縮されていくのを目の当たりにした後では、そういう話を聞くのはしんどかった。これだけなのだろうか。人生というのは。これがすべてだとでもいうのだろうか。
帰りの足は重かった。仕事がうまくいっても、どうしても楽しくならない。パチンコ屋から出てきたおじさんが、そのままバス停で一人待つ男子中学生のところへ歩いていった。どうやら帰りのバス賃をねだっているようだ。人生経験の少ない男子中学生は、財布を取り出して、いくらか渡していた。あのおじさんがパチンコ屋から出てきたところから見ていたら、対応は違っただろうか。それとも「そういうことができる人がいる」ということに思い及ばず、やはりお金を渡しただろうか。純粋無垢は美しい。しかしこの世界を汚れることなく渡っていくことなどできない。いずれあの中学生も気付くことだろう。
救急車が行く。どく車もあれば、どかない歩行者もいる。どうしたというんだろう、医療従事者の皆さん。いったい、何を守ろうとしているのか。本当は分かっている。ただ、心が疲れているのか、どうしても道理が呑み込めない。
命の尊さが分からなくなっている。そして本当に命に軽重がないのかも。学校で習ったきれいごとが全て嘘だと知って立ちすくんだ社会人一年生のころ。そしてこの世界との本当の関係。人間も動物であること。もがく日々の中での疲れ。
精神性の高い人に会いたい。貴人と会話がしたい。誰か高い場所にいる人を仰ぎ見たい。自分も「てぇてぇ」などと叫んでみたい。しかし、この世界の暗い場所に目を凝らすしかなかった自分にはもう、人間の善性が霞んで見えている。まるでこの曇り空の下の、人々の営みのように。
いったい自分は誰の視線で、自分自身を見ているんだろう。ふいに曇り空の下の街が俯瞰されて、そこに溶け込んで見えなくなった自分自身の姿を見出した。それは日常だった。そしてそれが人生だった。
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