第10話 世界・ザ・ワールド

 ふと、男はこの世界のすべてを意識してみるつもりになった。どうしてそんなことを思ったのか。それは彼の毎日の生活の垢が彼の人生に堆積して、どうにもこのルーティンから逃れられなくなりつつあると自覚したからであった。彼は知っていた。もしここから抜け出す可能性さえ失えば、自分の人生は炎を失って、永遠に死んでしまうと。冷たく永遠に死んでしまうと。だから彼は願っていた。そして、この世界のすべてを意識することを思い付いたのである。

「ふう」

 ため息を吐いた。彼はもう若くはない。どうしてこの世界に生まれてきたのか、そんな問いも彼を動揺させたりしない。そんな中で、そんな自分のままで、彼は死んでいこうとしている。

 いったい彼の人生とは何だったろう? 幼い時は、この世界の役に立つような人間になるようにという周りの大人たちの配慮から、彼は没個性的な努力をしていた。国語算数社会理科。そういう没個性的で画一的で無個性な努力を。そして彼が大人になったとき、彼は自分自身が異形であることを発見した。用などなかったのである、国語算数社会理科などには。それを生かすことのできない自分を発見したのだ。そして彼は一般道を外れた。彼固有の本性が、彼に道を外させたのである。

 ようやく彼は自分について考えた。自分について考える、そのために彼は他人について知ろうとした。他人が自分のために鏡になってくれるだろうことを期待してのことである。そうして彼は他人の人生を眺め始めた。いろんな人たちの人生を。やがて彼は他人の人生を眺めているだけで時間が過ぎていくことに気付いた。これでいいのだろうか。彼は自問した。彼はこの世界に埋もれていく自分に気付いた。これからどうするのか。知ろうとすることを放棄するときが近づいていた。廃棄物になる前に自分の走りを見せる。それしかなかった。

 彼はこの世界を意識した。自分の周りにあるものから始めて、徐々に範囲を広げていく。知らないものにぶち当たったら、自分の知るものから類推して、自分の中に世界を落とし込んでいく。細い路地裏、道路の真ん中、広い場所、狭い場所、熱い土地、寒いところ、海の真ん中、山の奥、都会の影。彼は想像し続けた。

 彼は自分の中に在る世界を通して、この世界を知った。これは『知っている』ということなのだろうか。『知っていると思っている』ということなのだろうか。彼には分かっていた。おそらくは後者なのだろうと。そして何も知らないままにこの世界を去っていくのだろうと。

 百億の人々よ! その根底に何を抱えているのだ? 飢えていたら満腹になりたいだけなのだろうか? 人間の奥底を覗き込ませてくれないか、作家たちよ! 文字の羅列の中に生きた人間を容れられる者たちよ!

 データとなり情報となった人間たちは生きていく。そんな時代に彼は生まれた。彼はいま、懇願している。神さまと言葉を交わしたいと。この世界に人間の存在とかかわりなく存在する『知性』と言葉を交わしたいと。彼はそれを願う、あきらめにも似た気持ちとともに。

「絵が描けたらなぁ!」

 彼はひとりごちた。ふと願ってみたくなったのだ。この広すぎる世界の中で、自分の視界に収まる狭い庭の中に安らうことができたらと。

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