日常の中の微細な光景
第1話 喫煙所
それは社屋の片隅にある喫煙所のことであった。そこでは男たちがなんとかパーソナルスペースを確保しながら、しきりに煙を吐いていた。
藤代は自分の仕事に一区切りつけ、その喫煙所に顔を出した。かろうじて外光の入ってくる薄暗いその場所は、放心したように煙を吐き続ける男たちを、活気あふれる世界から隔てて匿っているかのようであった。
藤代もまた煙草に火をつける。肺を煙で満たした後、吐き出す。軽い酩酊が波のようにすべり込んで、また引いていった。
「藤代」
隣で吸っていた松谷に声をかけられる。松谷は直属の上司である。
「お前、『音ゲー』ってやったことあるか?」
「音ゲーですか」藤代はさっと自分の記憶をおさらいする。「まあ、高校のころに何度か。そのくらいですかね」
「タイミングが合ってれば『エクセレント』って画面に出るんだよ」
「はあ」
「でも……」
ここで松谷はすっと煙草を加えた。煙で肺腑を満たし、ゆっくりと吐き出す。藤代もまた煙草を加え、その沈黙に付き合う。
「『エクセレント』が一つあってもしょうがないんだよ。『グッド』でも『セーフ』でも、そういう『耐え』みたいなものを長く続けた方が点数がいいんだよ」
「はあ、そうですか。いや、まあ、そうですね」
『今日の課長、なんか変だな。いつもと雰囲気が違うっつーか』と、藤代は思った。『まあ、原因を探ってみてもしょうがない。どのみち俺が踏み込んでいい領域の話じゃないだろうし』
「はぁ~~……」
松谷は大きく口を開けて、ゆるゆると煙を吐き出した。
「人生とおんなじだ。人生とおんなじなんだよ」
松谷の虚ろな目はどこを見ているのか分からなかった。少なくとも藤代を見てはいなかったし、他の男たちのことも見ていなかった。喫煙所の壁を見ていると言えばそうなのかもしれないが、松谷の脳裏にその壁は像を結んでいただろうか?
松谷はまた煙草を口に含んだ。じっと虚ろな目を中空に固定させて、もう傍らに藤代がいることも忘れているかのようだった。藤代もまた煙草をくわえ、ゆっくりと煙を味わった。唐突に始められ、一方的に打ち切られた会話に未練は無かった。もともと藤代は結論の有無を問題にしない雑談が苦手であった。ふと、妻のお喋りを思った。家に帰ると必ず浴びせられる他愛のない一方的なお喋り。唯一の利点は藤代がしゃべらなくとも会話が回ることであった。
「ふう……」
藤代は煙を吐く。藤代の前を横切って、松谷が喫煙所から出ていった。その背中を見送って、藤代は煙を吐く。松谷の背中がぼやける。やがて藤代の思考もその煙に紛れて、とりとめなく断片的なものになっていった。
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