第5話 迷い道

 作家・今村尚隆はぐらぐらする頭を持て余しながら、それでもあと一行、あと一文字と真っ白い原稿用紙の格子を文字で埋めていった。泣きたいような気がしていた。鼻の奥にすっぱいような辛(から)いような、目が痛くなるような臭いを感じていた。それでも今村は書いていた。しかしやがて限界が訪れた。かろうじて部屋の灯りを消す。そのあとは、寝床に向かって倒れ込む。まさにその一瞬、今村が考えたこと。

 おそらくだが……もう二度としあわせには暮らせないのではないか。もう二度と、気の休まるときは来ないのではないか。ほんの一瞬の光との邂逅にすべてをささげて、あとは何かに追い回されるようにして生き、強制シャットダウンされたパソコンのように眠り、それを死ぬまで繰り返すだけではないだろうか?

 救済を待っていた。そんなものはどこにもなかった。手がベタベタする。顔中ベタベタする。背中に汗をかいている。この世界は地獄ではないだろうか。あるものはパサパサに乾いて、また別のものはベタベタとまとわりついて、どうしようもないものばかりではないだろうか。

 もっと他の道はなかったのか? 甘く安らぎに包まれて。そんな世界はもう、どこにもなくなっていた。臭い。棘が刺さる。おそらくはもう、誰とも分かり合えない。俺自身もベタベタして、何かを汚しながら生きている。

 脂汗をかいている。いつも付きまとう不快な感覚。死んだら、死んだら楽になれるのか? それは死を超越しようとする者たちに対する軽蔑と恐怖。そして彼ら彼女らが不死を完成させる前に死にたいという願望、熱望。それが完成する前に、俺は逃げる俺は逃げる俺は逃げる。俺にはもうこれ以上、背負えなくなっているから。

 死が見えた。あそこがゴールだ。俺は飛び込む。誰にも邪魔はさせない。邪魔するなら俺と道連れになってくれ。

 太古の昔から今の俺まで続いたのは、残酷になれた瞬間があったからのはずだろ!? それが分かっているなら、俺を死なせてくれ。お前の不死を邪魔はしない。不死の前に死にたくはないだろう!? 不眠の街が見える。そこで俺が見たもの。死の瞬間を待ちわびる俺の精神的なきょうだいたち。死が訪れる。それをこの世界に対する最後の信頼として保っている。そしてそれが創作の源泉になることを知っている……。

 作家・今村尚隆は、およそこのようなことを考えながら寝床に倒れ込み、強制シャットダウンされたパソコンのように唐突な、そして深い眠りに落ちていった。

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