第6話 ランナー

「走るとき、何考えてます?」

 唐突にそう聞かれた下田は、何も考えることなく、答えた。

「マッチョ」

 聞いてきた人物の方は見ない。そうすることで、ただ前だけを見て、走り続けている。

「ほほう」

 感嘆の声がすぐとなりから聞こえてくる。いったいどこに、そんな感心するところがあったというのか。いぶかしげに思う下田はそれでも走り続けた。まるで走ることで考えることができるかのように。

「それで?」

 それで?とは何だろう。下田は考えた。いったいこの声は何なのか。もしかして、熱湯となった汗の滴り落とす沸騰した頭部が、なにか下田の運命にいたずらをしている、とでもいうのだろうか。

「マッチョはデリバリーする。俺の体をゴールへ」

 とっさに思い浮かんだ言葉。それは期せずして下田の心の奥底をさらって、あたかも真実の言葉を見つけたかのようであった。

「それは……」

 声は絶句した。まるで、もはや自分が語るべき言葉はもうないとでもいうかのように、開放感を感じたかのような絶句であった。

 あるいは、行ったのかもしれない。言葉のいらない場所へ。だからこそ彼は知ったのかもしれない。自分の根拠、自分の存在基底。まるでうねる川面の奥底にある石たち。それが正体なのだ。

 ゴールした後、汗を拭きながら、下田は考えていた。しかしその考えには、そう、その思考には言葉がともなわなかった。もし、これが漫画であれば「……」としか表記できない、そういった思考であった。

 そしてそれは同時に試行でもあった。試したかったのだ。あるいは己を。そうすることで下田は自分と自分にかかわりのある、いくつかの兆候を確認し、その先にあるものをおぼろげでもいい、見ようとした。その言葉のない思考をたどることで、あるいは下田は自分自身のルーツへと向かっていこうとしていたのかもしれない。

「あ、今日、飲み行く?」

 同僚からの声がかかった。酒。この世界には酒というものがある。その存在を思い起こさせる同僚の言葉は、下田からすべての思考を奪った。そして下田は想起した。冷えたグラスに注がれた最初の一口のうまさ。喉を駆け抜ける日本酒。女どもに媚びるべくカルアミルクも流し込む。

「ああ、うまい!」

 人間に高尚な哲学など必要ないのだ。ただ酒があればいい。思考停止こそ天国への道しるべ。一杯、また一杯の酒は極楽浄土への一里塚。飲め。飲むのだ。

「くぅ~~~!」

 聴け! 酒飲みたちの奏でる感嘆符! これこそ酒飲みの歌! 歌え! そこにあるありとあらゆるもの! 賛美せよ! 酒がお前を導き! 酒がお前を人にする!

「あぁ……これだ」

 そう、答えはそこにある!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シンプル雑話1000 ブル長 @brpn770

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ