第7話 失くした本の記憶

 郊外の住宅街は黄昏に包まれていた。夜が近づいていた。その足音はカーテンを閉め切った部屋の中にいても聞こえたのだ。男は一人、部屋の片隅に座っている。

 男は誰かの声を聴いた気がしていた。その声は誰のものか考えていた。シーンが思い浮かぶ。それは男が自分で体験したものではなかった。いつかの読書の折り、男が頭に思い描いた光景であった。

「ううむ……」

 男は唸った。その本の題名が思い出せないのだ。あの文章を読んだとき、自由に空想したその瞬間だけが男に残されたものであった。しかし、それだけでは。男は物足りなさを感じ、深く深く記憶の底へと潜行を開始した。

「あれは……」

 あれはいつのことだったか。男は指を折って数える。両手を使い、最後の小指をたたんだ。

「十年……」

 十年経っていた。二、三年前かと思っていた男は驚いた。古い本より、新しい本より、何より十年前の本というのが一番見つけにくいのだ。これほど出版物があふれるこの時代においてはなおさらである。新しく電子書籍なるものも登場したが、十年前のものは人気作しか電子書籍化されていないという現実もあった。

「そうか、ここか……」

 男は記憶の中の群青色の街にたどり着いた。曲がりくねって、ひだのように別れた小路を行く。曲がり角の先に何があるのか見ようとして、男は一歩一歩、頭の痛みを感じながら歩いていた。

「うう~……」

 男は頭を抱えた。おぼろげながら見える光景。少年がいたはずだ。少女もいたはずだ。何の変哲もない、何のひねりもないボーイミーツガールだったはずだ。彼らは川原にいた。最後に交わした会話。そしてそのあとの、会話よりも雄弁に気持ちを伝える行為。人間に肉体が与えられた理由。言葉にはないもの。言葉では伝えられないものを伝える手段。それは月並みなものだったはずだ。当の本人たち以外にとっては。

「わかるんだ。わかるのに……」

 男は苦しんだ。シーンを鮮明に思い出すことができる。なのに固有名詞は何一つ思い出せない。だからこそ、このネット万能の時代においてさえ、男は自分の記憶をたどる手段を持ちえない。自分にとってしか意味のないものだったのか。それを思い知らされる。その本と出会い、その光景を思い描き、そしてそれは自分自身の中にしか残っていないのだ。

「せめて……」

 せめてもう一度、あの本を読みたい。男は『本は買う派』だ。だが男の人生にも嵐はあった。そのとき、男は多くの物を失った。当時の蔵書なども失った。このまま思い出せないなら、男は自分の記憶の一部分を失ったままになるのだろう。十年前に通っていた本屋は、今はもうない。あの十年前の本棚に行きたい。だとしたら。

「そうだ、いつか……」

 男は決心した。国会図書館に行こうと。この国のすべての出版物を収める偉大な図書館に。しかしそれはいつのことになるだろう。九州のド田舎に住む男にとって、首都へと上ることは簡単なことではなかった。それでもいつか、男は記憶のかけらを探す旅に出るだろう。男はその日を夢見たのだ。

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