第5話 悪の根幹

 成部なるべ保志やすしは小説家志望の男である。

 今、彼は書き物机に向かって、視線を斜め上に向けて構想を練っていた。登場人物の性格について彼は思いを巡らす。

「さて、どうするか」

 彼が悩んでいるのは、いわゆる悪役というものの存在を、自分の小説の中でどのように消化するのかという問題である。彼は生来の性善説信者であった。彼はこの世に生れ落ちて二十年弱である。それなりに悲惨で救いのない出来事にも直面してきたのであるが、彼の性格の重要な一部分をなすポジティブシンキングが彼に誰かを憎むことを躊躇させ、結果として、彼は悪役の描けない人間になってしまった。

「そう、そういう人たちにも何か事情があるんだろう」

 彼はそう考えていた。もちろん彼はこの社会で生きる人間の一人だ。中には動物のような人間もいて、そういった人たちは己の獣欲の赴くまま他人を傷つけるという事実を知っていた。しかし、知っているというだけで、いまいちピンと来てないところもあったのである。

「悪とは何か」

 それは彼にとって重要な問題であるような気がした。ここから話を膨らませてみよう。彼はそう思い立ち、思考を進めていく。

「まず、『悪』と評価される行為がある」

 殺人や窃盗といった刑法上の犯罪とされる行為。そして不倫や裏切りといった倫理的に非難される行為。

「それらの行為の根幹にどのような意思・意図があるのか」

 それが知りたい。それが知りたいんだ。成部は強くそう思った。成部はさっそく資料集めを思い立つ。悪をなした人間の赤裸々な告白が必要だ。そのため彼は歴史の本や、殺人犯の独白や、ネット掲示板の不倫板などを読んでみることにした。

「さて、忙しくなるぞ」

 悪の根幹には何があるのか。今まで考えてこなかった問題に、今、成部は向き合おうとしていた。

 一般的に、作家は創作を通じてこの世界を知っていく。それはあらゆる職業人が自分の職業を通じて世界を知っていくのと同じことである。そして成部もついに己の登場人物のプロファイリングの必要性を感じ、そこにこの世界を反映させようとしているのだ。もちろん、これができればそれで作家道を極めたなどということにはならない。この先にも道は続く。しかし、今回のようなことを考えることは、確実に成部の作風を広げてくれるだろう。そして、それは望ましいことである。

 一方で、次のような危惧もある。詩人ゲーテは言った。

「すべてを知れば、すべてを赦すことになる」

 この言葉は『悪の心理を知れば悪として描けなくなる』という危険性を指摘しているのだ。加えて、作家において安易な悪役の登場を忌避せしむることにもなる。知れば知るほど分からなくなるこの世界において、『悪』というのは一つの重大な問題であって、誰でも一度は深く考えてみる必要があるだろう。

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