最終話 夜の丘
丘の上で星を眺めていた。詩を作ろうと思った。でも止めた。大切な瞬間を写真に残そうとしてファインダー越しにそれを見ていたころの後悔を思い出した。
「言葉は無力だ」
それでも私は言葉に拘泥する。何のためか分からないまま。ここには何があるのか。しかし結局、人間が持ち得るものほどの深さしかない。
眼下の小道を綾小路が歩いていく。ある種、彼は幸せな男だ。常に自分自身に没頭している。そして表現の方法を模索している。私には彼のような没入の時を望めない。どこか醒めている。今を意識しすぎている。
時の流れを眺めたとして、それが何だというのか。私にわかることは少ない。分かるのは、皆が自分の人生を生きているということだけだ。他人の人生を眺めているだけでも時は過ぎていく。私はそれでもよかった。しかし綾小路は。どこか釈然としないものを抱えているのだろう。だからこそ自分自身に没入し、表現を模索するのだろう。
再び私は夜空を眺めた。この空を詩に詠む。私はそれを諦めた。私の言葉は誰に届くのか。届こうと届くまいと、もうどうでもいいような気がした。このときこの瞬間を、私は堪能した。他人がこれを味わうと味わうまいと、それは私の範囲にはない。他人の心に対する野心を、もう失くしたのだ。
今の私にできることは何だろう。考えても分からない。だから私は空を見上げる。
夜空、星、瞬き、空気の冷たいこと……。
言葉を捨てた。夜空を眺めた。
しばし
結局、表現とは何だろう。この世界のすべてが神様の作品なら、そこから一部を切り取る絵画や文芸やその他多くの表現の存在理由は何だろう。
「全人類に通底する何かを措定し、他人と感覚を共有しようとする試み」
つぶやいた一言は風に溶けた。これ以外にない。その確信が胸を満たした。
「もっと簡単に言えると思うよ」
振り返るとそこには少年が立っていた。夜空の下、その暗がりの中に立っていても、少年はほんのり光を纏っているかのように見えた。定かでないはずの顔に笑みを浮かべている。それが分かってしまうのだ。
「誰かとつながりたいんだ。それが僕たちの願い」
音楽だ。その声は音楽であった。
「でしょ?」
あなたは何者だ。そう問おうとした。しかし、問うべきではないと思いなおした。彼だ。彼を表現しなければならないのだ。私は唐突にそれを悟った。
「あなただったのか……」
私のつぶやきに少年はうなずいたかに見えた。そして、その姿は夜の闇へと溶けてゆき、やがて消えてしまった。
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