第9話 海鳴りのディアボロ その三
団地の裏は墓地になっている。
林もあって、警察の見張りが手薄になっていた。そこから団地の敷地に入った。
狭い裏庭には自転車置き場がある。
女が一人いた。赤い自転車にまたがって、こっちに背をむけている。団地の住人だろう。龍郎は話を聞くために近づいていった。
「あの、すいません——」
声をかけた瞬間、龍郎は異変を感じた。女の体がガクガクふるえている。それも異常に強く、だ。
「あの……」
龍郎は思わず、あとずさった。
すると、大きな音を立てて、女が自転車ごと倒れた。横向きになった女は自転車小屋のコンクリートの上で、ビクッ、ビクッと
女の腹部から変なものが生えていた。腹に黒い大きな毛玉がくっついているのだ。だが、次の瞬間、毛玉が分離した。女の腹につっこんでいたクチバシが、ズルズルと出てくる。それは毛むくじゃらの小鬼になった。一つ目で、頭に角が何本もある。
(こいつ、貪食だ)
久々に見た。
もっとも低級な悪魔だ。
姿形はさまざまだが、飢えて死んだ人間の魂が怨霊化すると、異形の化け物になる。
キヒャーッと奇声をあげて、貪食の悪魔は襲いかかってきた。
龍郎が右手をかかげると、その手に食いついてくる。が、にぎりこぶしを口に入れたとたん、頭部がドロンと溶けだして霧散する。
形を持ってはいるが、低級な悪魔のほとんどは霊的な存在だ。龍郎のなかにある苦痛の玉は、そういう魔物に対して、ことに強い。
急いで建物の前にまわった。
駐車場をひとめ見て、あぜんとする。
フェンスの外から見たときは認識できなかったが、駐車場はありとあらゆる悪魔であふれていた。
巨大な牛の頭の
同じほどの巨体の
棍棒を持った赤鬼。青鬼。
赤鬼は全身が血まみれになって赤く見える。青鬼は死人の皮膚の色。ゾンビだ。
口の裂けた女もいれば、体のあちこちが何回転もねじれた子どももいる。
無数の貪食。
それに、強欲や憤怒、淫欲らしき悪魔がウジャウジャと
低級な悪魔にまじって、カタツムリのような目玉や鱗を持つ人魚も、たくさんいる。
フェンスからこっちが霊場になっている。ある種の結界だ。
神社と団地を仕切っていたフェンスは一部が壊され、ひしゃげて穴があいている。以前、灯籠や地蔵があった場所に、遠目から見てもわかるほどの大きな穴があいていた。そこから、ひっきりなしに妖魔が這いだしてくる。
この前、人魚が現れたときは、ナイアルラトホテップの魔術が原因だった。魔術師がいなくなれば、結界は解けた。
しかし、今日はそんな感じではない。
この地を守護し、魔を封じてきた神社がとりはらわれてしまったことで、土地じたいの持つ魔術的な力が、いっきに噴出したように見える。
先日、ナイアルラトホテップのかけた魔法が呼び水になったのかもしれない。邪神の魔術の邪な気が、この土地の悪い力を刺激したのだ。
(この土地は超古代、クトゥルフの邪神を崇める人魚たちの祭壇があった場所だからか。異界へのゲートが出現しやすいんだ)
これを収めるには、ゲートを閉じるしかない。ひらいてしまった門をふさぎ、あの穴を埋めるほか方法はないようだ。
(でも、どうやったら、そんなこと……)
穂村なら何かわかるかもしれない。
古代史が専門の学者だ。
助言を得るためにも、まずは穂村を助けに行かなければ。
龍郎は建物のなかへ駆けこんだ。
電気はまだ通っているらしい。照明がついている。
だが、廊下は異形のものどもで、あふれかえっている。それらは龍郎を見ると、どれもこれも突進してくる。龍郎は右手をひらいて応戦した。右手から光が発し、悪魔たちは
穂村の部屋がある三階まで到達するのに、ずいぶんな時間を要した。化け物を浄化しながら外階段をのぼるうちに、日差しがどんどん傾いてくる。
ここまで魔物に占領されつくした建物のなかで、はたして穂村が生きているだろうか?
電話がかかってきたときからでさえ、すでに二時間はすぎている。
どうにか無事でいてほしい。
穂村は龍郎たちにとって重要な人材であるし、それに、友人の磯福を救えなかったことが、龍郎にはまだ心の痛手として残っていた。
これ以上、知りあいを亡くしたくない。一人でも多くを救いたい。
龍郎はなかば諦観を持ちつつ、がむしゃらに穂村の部屋をめざした。
小さな虫のような悪魔が尖った牙で足にかみついてくる。
地獄の門番のような牛頭が駐車場から体当たりしてきた。肩が三階にあたって、外廊下の手すりがくだけた。
すがりついてくる、ぬるぬるした手は人魚だ。触手が何本もからみつく。
それらを無我夢中で押しのけ、つきとばし、右手で殴って消滅させながら、どうにか穂村の部屋の前まで来た。
ドアはすさまじい力で鍵が壊され、こじあけられていた。
ドアを全開にする余地もないほど、悪魔で埋めつくされている。室内にも、いっぱいだ。
「先生! 穂村先生! 無事ですかッ?」
この惨状だ。穂村はとっくに貪食に食われるか、憤怒に八つ裂きにされているに違いない。
龍郎は応えが返ってくる期待もせず、ほぼ惰性のような感覚で呼びかけた。穂村が助からなかったことの確認作業にしかすぎなかったのだ。
が、返事はあった。
「ここだ! 助けてくれ」
押入れの襖がガタガタ揺れる。
まさかと思いながら、龍郎は室内の悪魔を一掃し、襖をあけた。
荷物を運びだしたあとのすきまに、穂村が長細い体をむりやり押しこんでいる。
「先生。よく無事で……」
「いやぁ、もうダメかと思った。やつら、どういうわけか、押入れのなかに入ってこれないようだった」
押入れのなかが青白く発光している。
龍郎は光の源を探した。
穂村の収集品を保管しているカラーボックスの引き出しをあけると、あの超古代の剣の破片が入っていた。バラバラだったはずの破片が寄り集まって、補修されていた。それでも不完全ではあるが、清々しい空気を放っている。
「先生。たぶん、やつら、これを嫌ってるんだ。これを持ってれば襲われることはなさそうです。先生は、これをお守りがわりにして団地の外へ逃げてください」
「わかった。君は?」
「おれは、なんとかして、あの穴をふさげないか試してみたいんです。先生、何かいい方法はないですか?」
「穴?」
「神社のところにあいた大穴ですよ。あそこが黄泉へのゲートになってる」
龍郎は自分の見解を述べた。
穂村が考えこむ。
「なるほど。門がね。しかし、その門はもともと、なんのために作られたものだ? 異界の邪神を呼びよせるためなんじゃないか?」
「まあ、そうですね」
人魚たちは邪神を崇める祭壇を築いていた。それは邪神をこの地に降臨させるためだったに違いない。
すっと全身の血が冷えていくような感覚を、龍郎は味わった。
「……まさか、邪神がやってくると?」
「そして、そいつを倒さなければ、ゲートは閉じない」
「…………」
まるで、龍郎たちが気づくのを待っていたかのように、そのとき、激しく大地が鳴動した。立っていられないほど揺れる。またたくまに、鉄筋コンクリートの建物が瓦解した。
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