第2話 くちなし その五
翌日。
お風呂場で全身泡だらけになって、ふざけあったせいで、寝不足ではあったが、身も心も満ちたりて朝を迎えた。正確にはかなり遅い朝を。
「青蘭。今日は繁田刑事の自宅を見に行くけど、いい?」
「いいよ。僕もいっしょに行く」
そのほうが龍郎も安心だ。
今の青蘭を一人にはしておけない。
朝食を食べてから、二人で軽自動車に乗りこんだ。途中で公園の駐車場に車を停めて歩いていく。
川沿いの道を進むと、どこからか甘い香りが風に乗ってくる。花の香りだ。実家にあったので
「なんの花かな?」
「いい香りだね」
甘い香りをかぎながら手をつないで歩いていると、散歩に来たような穏やかな気分になった。
川のせせらぎ。
鳥の声。
世界は幸福に満ちている。
「あっ、あの家だな」
団地にほど近いあたりに民家が何軒かあった。どれも牧歌的な景色になじむ色あせた建物。
甘い香りは、そのなかの一軒から漂っている。玄関先の表札に、繁田と記されている。自動車がないから、繁田は出かけているようだ。
「繁田さんは仕事みたいだな」
「刑事が妻を殺害したのなら、自宅に遺体を隠すと思えないけど」
「でも、きっと何かの痕跡はあるよ」
家の周囲を腰の高さのコンクリート塀がかこんでいる。その塀沿いに、ぐるりと家のまわりを一周した。裏庭にひじょうに大きな
龍郎は塀から身を乗りだして、なかを覗いてみた。梔子の木の根元に女が立っている。昨日のあの女だ。ぼっかりあいた虚ろな眼孔で、木の下を見つめている。まちがいなく、あそこに女の死体が埋まっている。
「警察を呼んでも信じてくれないよな?」
「死体をほりだせばいいんじゃない?」
「勝手に他人の家の庭を、理由もなく? それは変だよ。岸部さんに言って、調べてもらうことにしたほうがいいかな」
「うん……」
さっそく、昨日、渡された連絡先に電話をかけた。岸部刑事はすぐに行きますと返答してきた。
「二十分後には来るってさ」
だが、やってきたのは、岸部ではなく、繁田刑事だった。妙にキョロキョロしながら息急き切って走ってくる。
龍郎たちはあわてて繁田の自宅から離れようとしたが、見つかってしまった。
「おい。君たち、なんで、こんなところにいるんだ。ここは、おれの家だぞ」
龍郎は青蘭の手をひいて、必死に逃げた。
「本柳さん。こっちです」
路地の角から声がする。
見れば、岸部刑事だ。
手招きされるままに路地にかけこむ。岸部の手引きで、どうにか繁田をまくことができた。
雑木林のなかの空き地に逃げこむ。
「岸部さん。ありがとうございます。でも、繁田さんの奥さんの遺体は確実に、あの家の梔子の下に埋められていますよ」
言ったとたんだ。
とつぜん、龍郎は電気ショックのようなものを浴びて、気を失った。
地面に倒れたあと、どこか遠い意識のなかで、言い争う人声を聞いていた。
青蘭の声と、岸部刑事の声だ。
「離せよ! 何するんだ!」
「アイツが悪いんだ。おれとのことを旦那にバラすなんて言うから。おれは遊びだったのに。だって、本気になるわけないだろ? 二十も年上のババアだぞ? だから、死んでもらったんだ。死人に口なしだからな」
「じゃあ、なんで、龍郎さんにあんな依頼したの?」
「死人の霊が見えるなんて言うから、ほんとだったら困るじゃないか。繁田さんに告げ口されるかもしれない。試したんだよ。霊が見えるのかどうか」
「僕たちをどうする気?」
「もちろん、こいつには死んでもらう。あんたはめちゃくちゃ綺麗だから、楽しんでから死んでもらう」
「最低の愚民だな」
争う物音が続く。
青蘭の悲鳴。
龍郎は怒りのなかで、それを聞いていた。浴室のなかで愛した純白の裸身を、ほかの男に汚されると思うと、憤激で気が狂いそうだ。
だが、動けない。
スタンガンか何かで失神させられたのだろう。わずかに意識はあっても、体は麻痺している。
(青……蘭……)
こんなとき、アンドロマリウスがいてくれたら、青蘭は自力で逃げだせただろう。たかが人間の男に屈する必要などない。
でも、今、アンドロマリウスはいない。
「く、そ……ッ」
龍郎が必死にあがいていたときだ。
急に怒声が聞こえた。
青蘭の声じゃない。太い男の声が二つ、罵りあっている。
なんとか目をあけると、岸部が男に殴られていた。繁田刑事だ。体格のいい繁田の攻撃に、岸部はなすすべない。
龍郎の意識はぼやけて薄れた。
気がついたとき、すでに岸部は逮捕されていた。やってきたパトカーに乗せられていくところだった。
青蘭は服をやぶられていたが、どうにか無事だった。白い頰に殴られた痕がある。
「青蘭……」
「よかった。龍郎さん。気がついたんだね」
「ごめん」
赤く
その仕草に、龍郎は泣きそうになった。
自分が情けない。あっけなく騙されて、青蘭に怪我をさせてしまうなんて。いつも、自分は青蘭を守りきれない。それが悔しい。
抱きあっていると、繁田刑事が近づいてきた。何かとても感慨深いような目で、龍郎たちを見おろしている。
「……あんたたちは、ほんとに“見える”のか?」
「答えが知りたければ、あなたの家の梔子の木の下をほりおこしてください」
「…………」
まもなく、白骨化した繁田の妻の遺体が見つかった。
甘ったるい梔子の香り。
その根元にひざをつく繁田刑事のおもては、悲哀に満ちていたが……。
了
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