第四話 涙石

第4話 涙石 その一



 このごろ、青蘭が落ちこんでいる。

 それも、しかたのないことだ。

 退魔の力を失い、邪神の罠にかかって、あんなめにあえば、誰だってへこむだろう。


 あのとき、ナイアルラトホテップは「また会おう」と言った。あきらかに、青蘭に対してだ。

 青蘭のなかの快楽の玉を、邪神も狙っている。それが明らかになっただけでも、平穏な気持ちではいられないに違いない。今の無力な青蘭では、さらわれたら対抗手段がない。


「青蘭。元気、出して。ほんとに、あのことは不可抗力だったし、青蘭のことは、おれが守る」


 そう言って、こつんとおでこをあわせると、そのときは微笑を返す。でも、すぐにまた表情が暗くなる。


 やはり、早くアンドロマリウスをとりもどさないといけないのだ。

 青蘭が自分の身を守れるように。

 そうでなければ、青蘭は、いつどこにいても暗雲のような不安に包まれている。


 だが、なかなか、あの島へ行こうと、龍郎は言いだせないでいた。

 アスモデウスの記憶を持つことで、青蘭がどう変わるのかわからない。

 青蘭を失いたくない。

 おれはなんて自分勝手な弱虫なんだと、龍郎は内心、自身を責めていた。


 二人のあいだが、なんとなく、しっくり行かない。二人でいても、以前ほど幸せを感じられない。

 気持ちはずっと変わらず、青蘭を愛してやまないのに。愛しいからこそ、悲しみが募る。


 だが、まったく無為にすごしていたわけではない。いくらか進展もあった。

 あれ以来、考古学者の穂村と、わりに親しくなっていた。


「君たちのおかげで、これで二回も命拾いした。何か礼にできることがないだろうか」と言うので、以前、清美の実家で見つけた古文書の解析を頼んだ。古文書じたいは持ちだしていないので、スマホで撮った写真だ。


「これを現代語に訳してほしいのか? まあ、しかたないな。私の専門じゃないが、読めなくはない。しばらく時間をくれ」

「じゃあ、お願いします。ところで、あの団地はどうなりますか?」

「建物を解体するそうだ。あれだけ死人が出たり、行方不明者が出たんじゃ、しかたないだろうな」

「すると、神社や裏の墓地は?」

「それは、あのままのようだ。しかし、どうもおかしい。あの場所、このごろ、いやに地震が頻発する」

「えっ? 穂村さん、まだあそこに住んでるんですか?」

「ああ。ギリギリまでいるつもりだよ」

「なかなかの精神力ですね」

「うん? 何がだ?」

「いえ……」


 あれだけの恐怖体験をしたのに、穂村は心底たくましい。失われた超古代の謎が解けて、むしろ喜んでいるのだ。最近は熱心にクトゥルフ神話について研究しているらしい。


 龍郎たちにとっても専門知識のある学者が仲間になってくれるのは、ありがたい。


「しかし、それにしても荷物が多いからなぁ。急に引っ越せと言われても困る。どこかに避難させておく場所があればいいんだが……」


 困ったようすで穂村が言うので、龍郎は思いたった。


「それなら、おれが以前、住んでたアパートを、まだ借りたままにしてるんです。荷物が全部、運べてなくて。今月いっぱいは借りとくつもりなので、そのあいだだけなら、預かってもかまいませんよ」

「ほんとか? そりゃ助かる! ぜひ頼むよ。他人にはガラクタにしか見えんかもしれんが、私には大事な研究対象なんだ。とくに大事なものだけでも避難させておきたい」


 はははと、龍郎は苦笑いした。自分もガラクタにしか見えない一人だったからだ。


「じゃあ、今から行きますか? 一人じゃ運べないんでしょ?」

「ゼミの学生に手伝わせようと思ってたんだが、君たちが手伝ってくれるなら、今からでもいいかな」

「おれは手伝うけど、青蘭は力仕事なんてしませんよ?」


 穂村は青蘭をながめてから、哀れむような目つきでうなずいた。誰が見ても、どうにも肉体労働向きではないとわかる。


「じゃあ、学生を二人ほど呼ぼう」


 というわけで、急遽、引っ越しの手伝いだ。

 どうせ、毎日、とくにやることもない。以前の青蘭は、時間があれば新たな事件を求めて旅をしていた。悪魔を退治することが、青蘭にとって重要な意味を持っていたからだ。

 でも、アンドロマリウスがいなくなってから、青蘭は家のなかで鬱々としているばかりだ。


 それなら、引っ越しの手伝いも気晴らしの一つくらいにはなるかもしれない。


「青蘭はついてくる?」


 龍郎が誘うと、うなずいて立ちあがった。


「清美さん。行ってきます。夜までには帰るから」

「はいはい。行ってらっしゃーい」


 軽自動車に三人で乗りこむ。

 この前から何度も通っている団地に、またもや、やってきた。


 団地は一見すると、とくに異常はない。先日の衝撃的な光景は、まるで悪い夢だったかのようだ。


 だが、なんとなく圧迫感はある。

 深い地の底から、巨大なマグマの塊が静かに押しよせてきているような、説明しがたい空気が。


 やはり、ここはよくない場所だ。

 まだ何か起こるかもしれない。


 しかし、引っ越し作業は順調に進んだ。穂村の呼んだ学生が、青蘭の美貌に腑抜けになりはしたものの、龍郎が黙って青蘭の手をにぎると、一瞬で諦めた。


「おれのうち農家なんで、家の軽トラ、持ってきました」という学生の一人が運転する軽トラックに、穂村の部屋にあったガラクタの半分を載せて、龍郎のアパートまで移動する。


「おれも今月中までの予定なので、そのあとは、また移動させてください」

「なんなら、そのまま、私が借りるよ」

「ああ。それなら二度手間にならないですね」


 軽トラには荷物とドライバー。

 龍郎の軽自動車に他の四人が乗ってやってきた。


 久々のアパートを見たとき、なんとなく暗いと感じた。何かが悲しんでいる。


 青蘭がキュッと、龍郎の袖をつかむ。


「青蘭?」

「うん……」


 もやもやした変な感じのまま、アパートのなかへ入った。

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