第4話 涙石 その二
部屋に入った瞬間、誰かが泣いているような気がした。
何かが部屋のすみにいて、涙をこぼしている……。
「本柳さん。じゃあ、おれたち、先生の荷物、運んでいきますよ?」
声をかけられて、龍郎は我に返った。
「ああ。うん。押入れのなかは、だいたい片づいてるから、そっちから詰めてくれれば——」
言いながら、押入れをあけて、なかを確認する。布団などは新居に運んだあとだ。衣服はもともと、それほど数がなかった。
だが、押入れのすみに、ころんと何かがころがっている。
それを手にとった龍郎は、ハッとした。指輪のケースだ。ふたをあけなくても、なかに何が入っているのかわかる。
(こんなところにあったのか。引っ越すとき、ずいぶん探したんだけどな)
龍郎はそれを誰にも見つからないうちに、ポケットに入れようとした。だが、運悪く、そのときちょうど、穂村のダンボール箱を持ってきた学生が、「ここに置けばいいですか?」と、龍郎のとなりに立った。
「あれ? それ、指輪のケースじゃないっすか? わあっ、青蘭さんにあげるんすね? いいなぁ。妬けるなぁ」
派手にさわいでくれたので、青蘭に見つかってしまった。
「ほんと? 僕にくれるの?」
嬉しそうな青蘭を見ると胸が痛む。
「いや、その……」
これは違うんだよとは言えなくなっていた。
「うん、まあ……」
「ありがとう!」
満面の笑みの青蘭に、龍郎はケースを手渡した。青蘭がウキウキしたようすで、ふたをあける。なかには、アクアマリンのついた細い銀の指輪が入っていた。アクアマリンは澄んだ水色の石だ。三月の誕生石である。
青蘭は世間一般的な家庭環境で育ったわけではない。きわめて特殊な事情を持っている。誕生石のことなんて知らなければいいなと、龍郎は一瞬、願った。
とたんに、青蘭の表情がわずかに曇る。
「……これ、ほんとに僕の?」
「あの、ええと……」
「龍郎さんがどもるときって、都合の悪いときだよね?」
「えっ? そ、そうかな?」
「うん。そう」
じっと見つめられて、かなり焦る。
「えーと……いや、その、ほら。まだ青蘭の誕生日、聞いたことなかったから」
「ふうん?」
「青蘭の誕生日って?」
「七月三日」
「そうなんだ」
すばやくネットで検索すると、誕生石は真っ赤な石を示していた。青蘭らしい。
「ルビーか……」
「
「頼む。元カレの話なんかしないでくれ」
「なんで?」
「妬けるから」
「ほんと?」
「うん」
青蘭は龍郎の目を覗きこんでくる。龍郎が嘘をついていないか、透かし見ようとしている。
「龍郎さん」
「うん」
「正直に言って。これ、僕のじゃないでしょ?」
「う、うん……」
「元カノにあげるつもりだったの?」
「うん。まあ……」
「やっぱり」
青蘭は指輪のケースをしめると、いきなり窓をあけた。そして、思いっきり力をこめてケースを遠くへ放りなげる。オリンピックの代表になれそうなくらいキレイな放物線を描いて、指輪はケースごと飛んでいった。
「ほら、スッキリした! これでいいよね? 龍郎さん?」
「うん……」
ズキリと胸が痛んだことは、青蘭にはナイショだ。
(やっぱり、まだ忘れてなかったんだな。おれ……)
まあ、忘れられるわけもないのだが。あんな別れかたをしたら。
龍郎の表情を読んだのか、急速に青蘭が不安そうになった。
「……ダメだった?」
泣きそうに見あげてくる。
可愛い。
こんなにも愛おしい人に出会えるなんて、奇跡だ。
「いや、いいんだ。もう」
青蘭を抱きしめようと両手を伸ばす。遠慮がちに、青蘭がすがりつこうとした。そのとき急に、あいだに穂村がわりこんできた。
「いやはや。楽しい一幕を見せてもらった。が、もういいだろうか? 早めに運び入れて、学生たちを自由にしてやりたいんだ」
周囲に人がいたことを、ふいに思いだした。修羅場を見せびらかしていたわけだ。恥ずかしさで、このまま押入れのなかに閉じこもりたい。
「す、すいません。急いで、おれたちの荷物、出します」
龍郎は逃げるような思いで、置きっぱなしにしていたダンボールを持って外へ出た。と言っても、ダンボールの中身は清美のオタク本だ。数が多すぎて、全部、運びきれなかったのだ。
荷物の出し入れが終わったのが、午後一時すぎだった。
「じゃあ、これが鍵です。おれたちは、これで」
「ありがとう。また連絡するよ」
穂村たちと別れて、龍郎は青蘭と二人で車に乗りこんだ。町なかまで移動して、いったん停車する。
「昼ご飯、食ってから帰ろうか。青蘭」
「うん」
「ほら、このあたり、前はよくいっしょに散歩したろ?」
近年、国宝になった城の近辺だ。
さきほどのアパートに住んでいたころは、比較的近かったので、水堀のまわりの松並木の歩道を歩いたものだ。
景色のとても美しいところなので、青蘭の気分が少しでも晴れないかと考えた。
武家屋敷を改築した蕎麦屋で昼飯をすまし、肩をならべて石畳の街路を歩いていく。
ツツジや藤の花が咲いていた。一年でもっとも美しい季節だ。景色は穏やかで、やわらかな光に満ちている。それなのに、心の内はうっすらと冷たい。
青蘭にほんとのことを言ったほうがいいだろうか?
でも、青蘭は過剰なヤキモチ妬きだ。きっと許してくれないし、何より、龍郎の心が自分一人のものではないと知れば悲しむ。青蘭を悲しませたくない。
迷いの気持ちが、それを生んだのかもしれない。
気づくと、目の前に、その人が立っていた。
「
信じられない。
目の前に、あの指輪を渡すはずだった彼女が立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます