第3話 ロイコクロリディウム その七



 アスモデウスの体から力がぬける。

 龍郎の頰にあたたかいものが伝わった。


 涙——


 アスモデウスが泣いている。

 ほんとは狂いたくないのかもしれない。でも自分をなくした彼女には、それができない。記憶も、天使としての神性も、肉体も、能力も、仲間も、何もかも喪失した。

 ただ無限の虚無のなかをさ迷うだけ。その手につかめるものなど何もない。誰にもすがりつけない。呼んでも応えはない。

 きっと、恐ろしく心細かっただろう。それはもう、気も狂うほどに。


「おまえも青蘭の一部なら、おれが受けとめる。もう狂わなくていいんだ」


 急に青蘭の体が重くなった。意識を失ったのだ。


「青蘭。大丈夫か? 青蘭?」

「龍郎……さん?」


 意識をとりもどした青蘭は、自分の姿を見おろして、まだ乾かぬ双眸をふたたび涙でぬらした。


「ごめ……なさい。僕、また、あなたを裏切っ……」

「おまえのせいじゃないよ」


 悔しくないわけじゃない。


 でも、青蘭は自分がアスモデウスであることを知らない。なぜ、自分のなかに狂気の人格がひそんでいるのか。


 前世で天使だったことを、青蘭自身にさえ、龍郎は告げていない。

 もし、それを教えれば、青蘭はアスモデウスのころの記憶をとりもどすだろうか?

 そのとき、まだ龍郎のそばにいたいと思うだろうか?

 それが怖くて打ちあけられないのだ。真実を隠している負いめが、龍郎にはあった。


 それにしても、ここはどこだろうか?

 巨石のサークルのなかで地鳴りがしたあと、現実ではない場所に迷いこんでいるような気がする。


 そう。これまでも何度か経験した。

 悪魔が作る結界のうちだ。

 ここは魔術で構築された異空間に違いない。その証拠に、さっきまで、あれほど長い列を作っていた化け物たちが一匹もいなくなった。


 サークルのなかには、龍郎、青蘭、それに黒い衣をかぶった祭司が二人いるだけだ。


 龍郎は二人の祭司に歩みより、衣をはぎとった。身長でなんとなく、そうかもしれないと思っていたが、やはり、衣の下に隠されていたのは、龍郎の知る人物のおもてだった。

 磯福と穂村だ。

 二人は衣をとられると、ようやくハッと我に返ったような仕草を見せた。


(このなかに、結界を作った悪魔がいる。おれたち四人のなかに)


 龍郎は自分以外の三人の顔を順番に見まわした。


 青蘭ではない。

 青蘭からは快楽の玉の波動を感じる。外見だけ似せることはできても、この世に二つとない賢者の石をマネすることはできない。

 それにやはり、そこは愛する人だ。身体の細部まで特徴を知りつくしている。


 あとは、穂村なのか、磯福なのか。

 二人は同様にキョトンとしていて、自分の置かれた状況を理解していないふうだ。


(この場所で矢じりや剣をひろったと最初に言いだしたのは、穂村先生だ。ここに、おれたちを誘導した。おれたちに魔術をかけるために呼びこんだ……)


 龍郎はぼんやりしている穂村をながめた。操られたふうを装っているのか、それとも嘘偽りではなく、悪魔の魔法に踊らされているのか、見ただけではわからない。


「穂村先生。大丈夫ですか?」


 龍郎はしゃがみこんだままの穂村に、さりげなく右手を伸ばした。苦痛の玉の埋没した右手を。この手にふれるだけで、悪魔は肉を焼かれ、苦痛をおぼえる。


 だが、穂村は迷わず、龍郎の手をとった。龍郎の手に支えられて立ちあがり、キョロキョロしながら近くに落ちたメガネをひろいあげた。


(穂村先生じゃない! ということは——)


 ふりかえったときには、変化が表れていた。磯福の姿が急速に歪む。身につけた黒衣が鳥の翼のようにひるがえり、人間の皮がミシミシ軋みながら裂けていった。


 磯福の顔をやぶって、とつぜん、にぎりこぶしが突出する。白い手袋をはめた男の腕だ。男は磯福の体を、まるで衣服をぬぎすてるかのように投げすてた。


 現れた男を見て、龍郎はショックを受けた。見たことがある。どこでだったか、すぐには思いだせないが、その男を見たことがあった。


 全身が黒く、ニッと口唇をつりあげると、口のなかまで黒い。神父の僧服をまとい、胸には黒い逆さ十字をぶらさげている。


(そうだ。以前、エレベーターのなかで異変が起きたとき……)


 青蘭が小さくつぶやく。


「ナイ神父……」

「ナイ……神父?」


 龍郎の背中にしがみついた青蘭の頭部が、こくんとうなずくのが感じられた。


「……邪神だ。こいつ。ナイ神父はナイアルラトホテップの化身のなかで、もっとも有名な一つだ」


 ナイアルラトホテップ——


 その名は、さすがに龍郎でも知っている。たしか、クトゥルフの邪神の主神であるアザトースの右腕で、無貌の神と言われている。顔がないかわりに、たくさんの化身を持っていると。


 ナイアルラトホテップは白い手袋をはめた指さきを、チッチッとふった。


「惜しいな。もう少しで卵がかえるはずだったのに。まあいい。時間は無限にある」


 すっと手袋をはめた指が、青蘭の小さなあごをとらえる。


「また会おう」


 龍郎がふりはらおうとしたときには、ナイアルラトホテップは黒い巨鳥に姿を変え、飛び去っていった。


 魔術が解け、龍郎たち三人は現実の世界に立っていた。丘はなく、墓場のすみに大きな石が転がっている。倒れていた暮石はもとに戻り、死体の這いだした穴もふさがれていた。そこで異変などなかったように穏やかな景色。


 団地に帰ってみたが、人魚に寄生された人々はいなくなっていた。

 ただ、三階の磯福の部屋には、死体が一つ転がっていた。ずいぶん前に餓死したのだろう痩せ細った遺体だ。遺体から生前の姿を特定するのが難しい。


「そうか。この前、再会したとき、磯福はもう死んでたんだな……」


 龍郎は友人の死を悼み、両手をあわせた。




 了

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