第4話 涙石 その五
*
龍郎は川のなかを進んでいった。
あのころ、とても好きだった彼女。
不幸せな人で、でも、自分の運命を決して恨んだりしなかった。
最後まで気丈にふるまった。
あの日、指輪を持って病院に行ったときには、すでに遅かった。
わかっていたことだったけど。
それでも、自分の気持ちを伝えたかった。
だから、見つけないと。
あの指輪を……。
「龍郎くん。もっと、こっち。もっと……」
「うん。そうだね……」
ぼんやりしながら、言われるがまま、龍郎は深みへ深みへと進んでいく。
すると、そのとき、とつぜん誰かの腕が龍郎の手をつかんだ。
「龍郎さん!」
目の前にものすごい美形が立っている。ビックリするような美女だ。いや、胸がたいらだから男だろうか?
とたんに、龍郎の心は乱れた。
探していた大切なものがなんだったのか、一瞬、わかったような気がする。
(えーと……)
「せ……」
せ——なんだっけ?
グッと頭のなかを押されたような重圧を感じて、龍郎の意識は、また
「龍郎くん。わたしに指輪をくれるんだよね? わたしと来てくれるでしょ?」
「紫透……」
しかし、なんだろうか。
動けない。
心が二つに引き裂かれそうに痛む。
すると、目の前の美青年の瞳から、水晶のように透明な涙がこぼれおちた。
「龍郎さん。僕はあなたの恋人にはふさわしくないよ。僕は汚いし、ワガママだし、普通じゃないし、醜い。僕はいつも、あなたを裏切ってる。あんな化け物にいいようにされて。あなたが愛想つかすのはしかたないよ」
「……せ……ら」
「でも、好きなんだ! あなたがいないと……どうしていいかわからない。お願いだから、行かないでッ!」
青蘭が麗しいおもてを涙でグチャグチャにして、しがみついてくる。
水びたしになって、必死で。
あの
龍郎は自分の内から、あたたかいものがあふれだしてくるのを感じた。湯水のように、とめどなく湧きあがり、抑えられない。
「おれも……好きだよ。たとえ、どんなおまえでも。おまえがいないと、ダメなんだ」
かたく、抱きあう。
すると、紫透の姿が急速に薄れた。まだ残る微笑は、どことなく、さみしげだ。
「ごめん。紫透。あのころは、ほんとに君を好きだった。でも、今、大切なのは青蘭なんだ。この世の誰より、青蘭を愛してるんだ」
夕暮れの薄闇に吸われるように、紫透は溶けていった。
*
頭からずぶぬれになって、龍郎は青蘭とともに草むらにころがった。むしょうに疲れている。紫透の霊に取り憑かれかけていたのだと思う。
「ごめん。おれ、もしかして、あやつられてた?」
「うん」
「たぶん、おれのなかに心残りがあったからかな」
つぶやくと、青蘭が龍郎の胸をこぶしで叩いてきた。見目形は女性顔負けに艶麗だが、力は男なので、かなり痛い。
「イテテ。痛いって。青蘭」
「イヤだ! 龍郎さんが他の人のこと、ちょっとでも好きだなんて、許せない! 龍郎さんの心は全部、僕のものだ。全部、全部だ。すみからすみまで、全部!」
なんて激しい恋人だろうか。
そんなところも愛しいのだが。
「ごめん。ごめん。心残りっていうのは、愛というより後悔だ。あの指輪を渡せなかったから。紫透は再生不良性貧血だったんだ。難病にも指定されてる。重症だったから、長くないのわかってた。青春のさなかでさ。まだまだ、やりたいことあって。花嫁になるのが夢だった。せめて、あの指輪を渡して、結婚しようって言いたかったんだ。まにあわなかったけど。病状が急変して。お別れ言うヒマもなかった。おれが病院にかけつけたときには、もう……」
青蘭はべそをかいた目で、龍郎をにらんでくる。
「それでも、ダメ。許さない」
龍郎は笑った。
青蘭はこれまで出会った人のなかで、ダントツに不幸だ。たぶん、青蘭以上にヒドイ境遇で、幸薄い人なんて、これから一生かかっても出会わないだろう。
だから、自分は青蘭に惹かれるのだと、龍郎は自認している。
「全部、おまえのだよ。おまえのことしか考えてない」
見あげると、星空が美しい。
銀粉のようなまたたきを見ながら、今度は赤い石の指輪を買おうと、龍郎は思った。
「知ってる? 青蘭。おれの誕生石。九月だからサファイアだけど。ルビーとサファイアって、同じ石なんだ。同じ石の赤いのがルビー、青いのがサファイア」
「正確には、赤以外の色がサファイア」
「そう。見ためはまったく異なるけど、同じなんだよ。おれたちみたいだろ?」
青蘭は機嫌をよくして、龍郎のとなりによりそってきた。龍郎の胸に顔をうずめてくる。甘える仕草は子猫だ。
「ペアリング、買おうか?」
「うん」
星のきらめきは、満天のダイアモンド。
宇宙の彼方から歌声まで聞こえてきそうだ。
やがて、おずおずと、青蘭がささやいた。
「さっき、怖かった。ほんとに龍郎さんをつれていかれるんじゃないかと思って。龍郎さんが死んじゃったら、どうしようって。僕……もう一度、戦えるようになりたい」
龍郎も決意した。
このままではいけない。
青蘭には、アンドロマリウスが必要だ。
「あの場所に行こう。青蘭が育った島へ。青蘭の記憶が戻るかもしれない」
「うん」
あの場所に、こんなにも早く、ふたたび向かうことになるとは思ってもみなかった。
あのとき、青蘭の記憶の奥底で歌う、アスモデウスを見た。
忘却の天使。
今度こそ、とりもどせるのだろうか?
了
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