第4話 涙石 その四

 *


「龍郎さん! 待って。どこへ行くのッ?」


 青蘭の呼び声を無視して、龍郎は走っていった。

 さっきまで、ふつうに話していたのに、石畳の並木道を歩いていたとき、急に立ちどまり、青蘭の知らない女と手をとりあって駆けだしたのだ。


 ようすが明らかにおかしかった。

 女が以前、龍郎とつきあっていたことは察しがついたが、それにしても、視線が定まってなかった。

 青蘭が話しかけても聞こえないようだったし、姿さえ見えていなかったようだ。

 そのくせ、やけに素早く遠くへ行った。青蘭が全力で走っても、まったく追いつけない。いつしか見失ってしまった。


「龍郎さん! 龍郎さん! どこに行ったの? 龍郎さん?」


 探しまわったが、どこにもいない。

 青蘭の心に暗雲が立ちこめる。


(さっきの女だ。龍郎さんが指輪を渡すはずだった相手)


 青蘭は直感した。

 それは恋する者の本能だ。

 理屈も何もない。

 ただ、自分から恋人を奪っていく相手として瞬時に悟った。


 清楚で、まったく汚れたことのない女。青蘭とは、まったく正反対。あれが以前、龍郎の愛した女……。


 だから、だろうか?

 龍郎はやっぱり今でもあの女を愛しているのか? あの女を選んだということか?

 青蘭をすてて?


(龍郎さんが、僕をすてて……)


 そう考えるだけで、絶望と怒りが湧きあがった。

 龍郎だけは裏切らないと信じたのに。やはりまた、自分は騙されていたのだろうか?


 でも、暗い憤激だけではなかった。

 その一方で、それもしかたないという思いが片隅にある。


 自分は龍郎にふさわしくない。

 龍郎はほんとに善人で、優しくて、他人のために尽くせる献身的な性質だ。

 ルックスも今風だし、家は旧家でそこそこ金持ちだ。能力も決して低くない。たいていのことは、なんでも、すんなりできてしまう。


 あれで女にモテないわけがない。

 これまでだって、きっと、よりどりみどりだったはずだ。

 これからも、青蘭さえいなければ、龍郎は平穏な家庭を持って、生涯、幸せに暮らすのだろう。


 反して、青蘭は恋人として最低最悪だ。貞操一つ守れない。あんなことが、これからもきっと度々ある。

 そしてそうなったとき、歯止めがきかない。気が狂ったように求めてしまう。あんな醜い化け物相手でも、だ。


(だから、龍郎さんも僕に嫌気がさした。この前のこと、ほんとは怒ってたんだ。あきれはてたんだろうな……)


 見捨てられても、しかたない。

 心のどこかで、そう思う。


(好きなのに……僕、龍郎さんがいないと、どうしていいかわからないよ)


 松の根元にしゃがみこんで泣いた。大勢の人が歩く観光地だが、まわりの景色なんて見えていない。周囲の人々がどんな奇異の目で自分のことを見ていようと、今はそんなこと関係なかった。


 人目も気にせず嗚咽おえつしていると、ふいに誰かに腕をつかまれた。見あげると、フレデリック神父が立っていた。


「追いかけなくていいのか? こんなところで泣いているだけで?」


 いったい、どうやって、この場所を知ったのだろうか?

 あるいは最初から見ていたのかもしれない。神父は目下、青蘭たちの監視が仕事だ。


「だって……龍郎さんが悪いんだ。ほんとはずっと、あの女のことを忘れてなかった」

「恋敵が現れたってだけで切りすてられるほど、君の気持ちは軽いものなのか?」


「僕をすてていったのは、龍郎さんのほうだ」

「そうかな? どう見ても霊にあやつられていたが」


「えッ?」

「いいのかな? こうしてるあいだにも、取り殺されてしまうかもな」

「…………」


 胸の奥が、ざわざわする。

 これまで何度も人に裏切られてきた。

 人間は信用に足らないものだ。

 でも、龍郎を永遠に失うかもしれないと考えると、いてもたってもいられなくなる。


「青蘭。愛してほしいなら、自分の心に正直にならなけりゃ」


 フレデリック神父がウィンクして、青蘭を立たせる。


「……僕が追いかけても、龍郎さんは迷惑がらない?」

「それは本人に聞けばいい」

「僕は……こんな体だし……龍郎さんに、ふさわしくない」

「君は魅力的だよ。とてもね。君に本気でぶつかられて、ほだされない男なんて、この世にいるのか?」

「ほんと?」


 神父は黙って、青蘭の涙を唇で吸いとった。

 そういうふうに扱われることには慣れている。これは、青蘭に気があるよというサインだ。青蘭が一人でいると、たいていの男はこういうふるまいに及ぶ。


(龍郎さんだけが違ってた。ちゃんと『好きだよ。つきあってください』って言って、僕が承諾するのを待ってくれた)


 これ以上はないほど真剣な表情で。

 あのときの言葉に嘘があったとは思えない。


(僕は……龍郎さんを信じる)


 青蘭は神父の手をふりはらうと、急いで走りだした。共鳴しあう二つの玉の片割れが、青蘭を呼んでいるかのようだった。

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