第8話 失われた唄の追憶 その七
一晩中、続いていた潮騒が、朝方になってやわらいだ。
ふと目がさめた龍郎は、ひどく胸騒ぎがした。誰かに呼ばれているような気がする。
かすかな波音が聞こえるたびに、何者かの呼び声が歌うように、鼓膜の奥で響く。
青蘭はまだ眠っていた。
安らかな寝顔。
青蘭はあの夢を見なかったのだろうか?
(アンドロマリウスの記憶……)
なぜ、自分がそれを見たのだろう。
そう言えば、前にアンドロマリウスは言っていた。龍郎のことを、自分の若いころに似ているよ、と。
だから、龍郎に伝えたかったのだろうか?
(以前、青蘭のなかにいたアンドロマリウスには肉体がないようだった。その理由がわかった。あの地下にあった卵の数々は、全部、アンドロマリウス自身の体を使って造られた実験の産物だったのか)
なんという深い愛だろうか。
それは一方的な恋慕の押し売りかもしれないが、彼が本気でアスモデウスを愛していたことだけは認めざるを得ない。
古代人の精神構造は、現代人より遥かに単純明解だったらしい。いったん愛せば、生涯、その愛は消えない。
アンドロマリウスも、そうだったのだろう。出会いこそが運命だった。そして運命に従い、自分らしく生きた。
龍郎は眠る青蘭の頰にキスをして、立ちあがった。呼び声に導かれるように歩いていく。
廊下の窓辺に立つと、淡い薔薇色に空が燃えていた。鮮やかな朝焼けだ。
遠くに海岸線が見える。その海上をすべるように、何かが近づいてくる。遠目だが、すぐに何者かわかった。
アンドロマリウスだ。
アンドロマリウスの魂。
「よう。龍郎」と、彼が話しかけてくる。遠くにいるのに、その声がハッキリと聞きとれた。
「な? 言ったろ? おれとおまえは似てるんだって」
「そうかもしれないな。でも、おれはどんなことがあっても、青蘭を傷つけはしない」
「それは、どうかな。じっさいに目の前で愛しい人を亡くしたら、おまえだって自分にできるかぎりのことをするだろう」
それは、アンドロマリウスの言うとおりだ。
青蘭を失って、でもまだ、とりもどすチャンスがあると知れば。
きっと、龍郎は必死にあがく。
「おまえはあの火事のとき死んだんだな。なのに、どうやって青蘭のなかに入ったんだ?」
「青蘭が呼んだからだ。青蘭の強い絶望が、おれを死の眠りから覚ました。青蘭を守るためには、あの方法しかなかった」
一言ずつ話すたびに、アンドロマリウスの姿は現実の法則を無視して近づいてくる。瞬間移動のように異様な速さで、いつのまにか、龍郎の前に立っていた。
その姿は焼けただれた死体だ。
しかし、ほのかに光る蛇も透けて見える。
「おまえを信用していいのか?」
「それは、おまえしだいだ」
「青蘭はおまえの実験の成功例なんだろ? おまえは青蘭で何をしようとしてるんだ?」
アンドロマリウスの霊は笑みを刻んだ。
「それは教えてやれない。いくら、おまえでもな」
「青蘭を苦しめるつもりじゃないだろうな?」
「アスモデウスは、すでに今、苦しんでる」
龍郎は怒りの沸点を超えそうになった。が、思いなおして気持ちを落ちつかせる。
「おまえはアスモデウスを復活させようとしている。おまえがアスモデウスを傷つけることはない。ということは、青蘭のためにならないことはしない、と考えていいのか?」
「さあね。おまえの好きにしな」
龍郎は嘆息した。
一筋縄ではいかない相手だ。
本心をウッカリ洩らすことなんてないのだろう。
「わかったよ。とにかく、おまえがいなくなって、青蘭は戦えなくなった。どうして、青蘭のなかから出ていったんだ?」
「青蘭から、あの唄が聞こえなくなった。おれと青蘭をつないでいるのは、アスモデウスの歌声だ。最初におれを呼んだのは、正確に言えば、青蘭のなかにいるアスモデウスだった」
「なるほど。アスモデウスの記憶が失われたから、青蘭のなかにいられなくなったのか」
龍郎は肝心のことをたずねた。
これからの青蘭にとって、もっとも大事な問題だ。
「おまえはもう、青蘭のなかに帰っては来ないのか?」
アンドロマリウスはとうとつに背を向けた。海へ帰る気だ。
「青蘭は、おまえが守ってやれ。龍郎」
「アンドロマリウス。でも、今、青蘭にはおまえが必要だ」
アンドロマリウスはふりかえり、龍郎にあるものを手渡してきた。見れば、それは小さな箱だった。
ハッとした。もう半年くらい前になるが、青蘭の祖父の——つまりはアンドロマリウスの隠し財産を探していたときに見つけた箱だ。いつのまにか、龍郎たちの前からなくなってしまったのだが。
「これを青蘭に渡せ。もしも、そのときが来れば、おれはもう一度、青蘭に力を貸そう。青蘭が本気で、おれを呼べば。それまで眠りにつく」
肉体を完全に失って、アンドロマリウスは存在を保つのが難しいのかもしれない。
アンドロマリウスは海に帰った。
青白い巨大な蛇が波間に沈んだ。
了
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