第8話 失われた唄の追憶 その二
暗い廊下に人影は見えない。
当然だ。
今この建物のなかには、龍郎と青蘭しかいないのだから。
しばらく、龍郎はそこで感覚をとぎすました。が、物音はそれきり途絶えた。
「空耳だったかな」
きっと神経が高ぶっているせいだ。
龍郎は自分にそう言い聞かせた。
だが、部屋に戻ろうとしたとたん、また、かすかな音が届いた。
「地下だ」
「うん。そうみたい」
きっと、ネズミか何か野生動物が入りこんでいるだけだ。行ってみれば、こいつが犯人かとガッカリするに違いない。
「……行ってみる?」
「うん」
なんとなく気になった。
あるいは大切な話をつい先延ばしにしてしまいたかったのかもしれない。
龍郎は懐中電灯を手にとり、廊下へ出る。青蘭もそのあとをついてきた。
龍郎は以前、診療所のなかを歩いたときの間取りを思い浮かべて、地下へ向かった。コンクリートの階段をおりていく。
「青蘭は知ってるのかな? ここって、青蘭のおじいさんが変な実験してたよね? 前に来たときに実験室みたいなとこを見たんだけど」
「僕もよく知らないけど、その噂は聞いたことがある。たぶん、おじいさまが僕にナイショでやってたことだ」
地下には、あの実験室があった。
ホルマリン漬けの臓器や薄気味悪いものが、たくさん保管されていた。職員ですら、なんの実験をされていたのかわかっていなかった。
階段をおりると、ひきよせられるように実験室へとびこんだ。
懐中電灯の光をグルッと室内になげる。この前と変わったところはない。大きな棚がたくさん並んでいて、そこに陳列されたガラス瓶が懐中電灯の明かりを鈍く反射する。瓶のなかには薄気味悪いものがいろいろと入っていた。
「とくに何かあるわけじゃないみたいだな。やっぱり、ネズミでもまぎれこんでるのかな? 通風孔とかから」
龍郎はなにげなくつぶやいて、実験室のドアを閉めようとした。なかを見るまでもないと思ったのだ。
「さあ、病室に戻ろう」
だが、青蘭がひきとめた。
「待って。そういえば、僕がここにいたころ、所長の柿谷のあとをつけてみたことがあるんだ。まだ病室に外から鍵をかけられる前だけど」
「えっ? なんで、そんなこと?」
「退屈だったから」
「なるほど」
たしかに十代の少年がテレビもゲームも本もマンガも、気をまぎらわすようなものを何一つ与えられず放置されていれば、時間をもてあますのは当然だ。
「看護師とか、医師とか、みんなのあとをつけて遊んでた。とくに柿谷は電話でおじいさまとよく話してたし、秘密を隠してる感じがして面白かったよ。そのとき、あいつ、よくこの実験室に来てたんだ。たしかに入っていくのを見たのに、僕が覗いたときにはいなくなってることが多かった。もしかして、ここ、隠し部屋みたいなものがあるのかも」
「隠し部屋か」
青蘭が生まれる前のことだが、屋敷で雇われていた使用人が、なんらかの実験に使われて、人魚のような姿に変えられてしまった。その姿を龍郎は見たことがある。
あんな実験をするための場所なら、世間に隠匿しておく必要がある。この診療所の地下なら、船でしか出入りできない孤島だし、屋敷からも離れていて人目につかない。ちょうどいい場所だ。
「この診療所、青蘭が大怪我を負ったから建てられたって、前に言ってたよね?」
「うん」
「屋敷が火事になるより前にはなかったの?」
「さあ、それは僕にはわからない。五歳までの記憶がないし」
「そうか。ということは、それよりもっと前に、たとえば屋敷の人たちのための診療所として、青蘭のおじいさんが建てたのかもしれないね」
「そうだね」
あらためて、懐中電灯であたりを照らした。手術台や医療器具も一式そろい、ふつうの外科手術をするなら、この部屋だけで充分である。
「隠し部屋があるとしたら、壁の奥か、さらに地下だよね」
壁沿いに歩いてみる。棚が邪魔で、なかなか、まっすぐ歩いていけないが、懐中電灯の照明で見たかぎりでは、とくに怪しいところはなかった。コツコツと壁を叩いても、その向こうが空洞なのか、ただの壁なのか判別できない。
「床下かな?」
「かもね」
床をながめながら、小一時間もウロウロした。どこからか、カタンとかすかな音がする。
「このへんから聞こえたような?」
部屋の角あたりだ。棚と棚のあいだの床を調べていると、床板に、そこだけほんの少しスキマがある。
「ここ、上げ蓋になってるのかな?」
「あっ、ほんとだね」
「取っ手がないかな」
「見つからない」
しばらく、まわりを探したが、それらしいものが発見できない。
龍郎はあきらめて棚にもたれた。ふうっと嘆息しながら、なにげなく柱部分に手をかける。すると、手の平に変な感触があった。固い鉄製の棚のはずなのに、妙にスプリングがきいている。グッと力をこめると、ボタンを押しこむような動きが伝わってきた。同時に、カチッと小さな音がする。
「あッ!」
床板の一部が、はねあがった。
そこに取っ手のようなものがある。
龍郎はそれをにぎりしめた。力をこめると床板が持ちあがってくる。やはり、上げ蓋だ。
やがて、そこに五十センチ四方の黒い穴があいた。覗くと、なかに階段がある。
「地下だ」
実験室の下に、さらに階層があるようだ。
「行ってみよう」
龍郎は青蘭とともに、隠された下層へと足をふみだした。
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