第8話 失われた唄の追憶 その五



 あの華麗な天使に会うために、アンドロマリウスは参戦をかさねた。でも、会えるのは戦闘のときだけだ。


 だから、彼らの世界で何があって、アスモデウスが堕天させられたのかは知らない。彼女が堕天したと聞いたのでさえ、ずいぶん経ってからだ。次の戦のときに、彼女の姿が見えなかったから、あわててゼパルから情報を得た。


「アスモデウス? ああ、堕天したらしいぞ。惜しいことだ。英雄の卵を盗んだという噂だ」

「ああ、例の……それで、彼女はどうなったんだ?」

「さあ。翼を切られて、地上に堕とされたって話だが。そのへんで悪霊にでもなってるんじゃないか? おれも探したが、見つからなかった」


 そのあとは戦どころじゃない。

 アンドロマリウスはてきとうなところで戦闘を離脱すると、堕天使になったというアスモデウスを探した。


 見つけたときには、彼女は残骸になっていた。砂に埋もれて、器だけがそこにあった。あれほど輝いていた魂が存在しない。彼女が盗んだという英雄の卵も失くしていた。


「アスモデウス。なぜ、こんなことに……」


 物言わぬ人形となりはてた彼女を見たとき、初めて、アンドロマリウスは自分が彼女に強く惹かれていたことを知った。


 天使は地の神を解体、改良し、造られた存在だと聞いたことがある。

 そう。もとはアンドロマリウスたちと同じものだったのだ。


 かわいそうに。利用するだけ利用されて、最後は荒野に野ざらしにされて……。


 ぬけがらの彼女を抱きかかえ、そのとき、アンドロマリウスは誓った。

 必ず、彼女をもとの存在として蘇らせようと。

 どれほど長い年月がかかったとしても。


 それから、アンドロマリウスは戦闘を放棄したことで、裏切りとみなされた。追われる身となりつつ、失われたアスモデウスの魂を探し続けた。何千年も。何億年も。気が遠くなるような悠久の時を。


 地の神と低級な哺乳動物のあいだで混血が進み、自分たちと似た姿の生き物が地上に誕生したころ、ようやく、その人を見つけた。


 彼女は人間に転生していた。

 かつて自分が何者だったのか知るよしもなく、無為に生命を浪費し、儚く消えていく泡のような生涯を、幾度もくりかえした。


 もちろん、アンドロマリウスは彼女の魂をもとの肉体に戻すために苦心したが、いずれも失敗だった。どんな方法でも、彼女の魂がアスモデウス自身の肉体に戻ることはなかった。


 だから……。


 これは、大いなる実験なのだ。

 アスモデウスの神性をとりもどすための。

 きっと、彼女自身はアンドロマリウスを恨むだろうが、それでもかまわない。


 一言の言葉もかわしたことがなかった。いつも戦闘の合間に遠くからその姿をかいまみただけ。


 ただ一度だけ、彼女の歌声を聞いたことがある。

 戦が始まる前のほんのひととき。

 岩陰で歌う彼女をぐうぜん見かけた。胸の底をえぐられるような哀愁を帯びた唄だった。


 あのときの彼女をとりもどすためなら、他には何もいらない。自分自身の存在さえ賭けてもいい。


 アンドロマリウスだって永遠に生きられるわけじゃない。人間にくらべれば、遥かにその寿命は長いが、いつかはつきる。


 その前に、どうしても、もう一度だけ、あのときの彼女に会いたい。


「旦那さま。お客さまがお見えです」


 声をかけられ、アンドロマリウスはふりかえった。今の名前はアーサー・マスコーヴィルだ。ずいぶん長いあいだ、人間に化身している。そのほうが生命エネルギーの消費も抑えられるから、寿命を長く保てる。一石二鳥だ。


「そうか。来たか。ここへ通しなさい」


 人間の世界で財を成すことなど、悪魔の彼にはたやすいことだった。長いあいだに築いた潤沢な財産で、アンドロマリウスは東方の果てに島を一つ、買った。設備も整えた。いつでも実験を始められる。


 今のアスモデウスはエレナという少女に転生している。アーサーの娘だ。戸籍上はアーサーと妻マリアのあいだの実子ということになっているが、じっさいは養子だ。


 これまで数えきれないほどのアスモデウスの魂の転生が生まれ、死んでいった。なかには、まれに幸福な生涯を終えた者もいたが、たいていは悲惨な生きかたをして、若くして死んだ。何度かはアスモデウスの記憶が蘇り、悪魔憑きとさわがれて、殺されたこともあった。


 この無惨な転生の連鎖から、今度こそ、アスモデウスを解き放ってやりたい。


 物思いに耽っていると、扉がひらき、男が一人、入ってきた。

 この部屋に客を招くことは、まれだ。アスモデウスのカラになった器を寝かせている寝室だからだ。人間の女に見えるように、魔術で体を半分ほどに縮めてある。


「初めまして。サー・マスコーヴィル。このたびはお招きいただき、まことに光栄にございます」


 そういう男は、一見したところ、背の高いごく普通の人間だ。肩書きは医師。だが、スーツの下の肉体はなかなか屈強だ。


 アンドロマリウスは笑った。


「よく来た。柿谷教授。いや、我ら地の神が同胞。フォラス」


 フォラスは苦笑に口元をゆがめる。


「その名で呼ばれるのは、ずいぶん、久しい。もはや自身でも忘れかけていた。よく私だとわかったな。アンドロマリウス」

「何、わかるさ。おまえが今、おれをひとめ見て、正体を見抜いたように」

「たしかに」


 地の神は今では多くが魔王として、その存在の痕跡をごくわずかに人間界に残している。外なる神を旧支配者と呼ぶのに比して、旧神と呼ぶ人間もいる。


 地上は今や人間の住処となってしまったので、地の神の多くは宇宙のどこかに自分の結界を作って暮らしている。

 この地にとどまる者は、たいてい、アンドロマリウスやこのフォラスのように人間に化身して、人のなかにまぎれていた。


「それで、わざわざ、私を呼びだしたからには、何か用があるのだろう?」

「もちろん。我らのなかでも、ありとあらゆる知をきわめたと言われるおまえだ。力を貸してくれないか?」

「話による」

「心配いらない。きっと、おまえの好奇心をそそるだろう」


 そう前置きして、アンドロマリウスは語った。

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