第9話 海鳴りのディアボロ その六



 鼓膜がやぶれそうだ。

 この叫びを聞いたがために、一生涯消えない何かしらの異端の印を、体に刻まれてしまったような気がする。

 脳をちょくせつ破壊していく、音による攻撃だ。


 青蘭や穂村、それに神父も両手で耳をふさぎ、思わず絶叫した。


 だが、青蘭の苦痛はそれだけにとどまらなかった。

 恐ろしいものを見た。

 邪神の触手が瓦礫の山を崩している。

 もちろん、遊びで崩しているわけじゃない。そのなかからをとりだそうとしているのだ。


(龍郎さん……)


 この世で一番、見たくない光景。

 龍郎が邪神の触手につかまれ、持ちあげられていく。空中高く。邪神の頭部に達するまで。


 龍郎が喰われる——

 そう思った瞬間、触手は龍郎の服をやぶり始めた。違う。ただ喰うわけじゃない。このクトゥルフは女体のようだ。龍郎を男として欲しているのだ。


 青蘭のなかに、ふつふつと怒りが湧きあがってきた。


 自分がけがされることには、もう慣れた。ほんとは嫌だけど、でも、慣れた。


 だけど、龍郎が穢されることには我慢ならない。

 龍郎は青蘭にとって光だ。青蘭を深い絶望の暗闇の底から救いだしてくれる。

 龍郎といるからこそ、青蘭にも光のぬくもりを感じることができる。

 龍郎がいなくなれば、ふたたび冷たく暗い闇の底につきおとされるだけ。


 誰からも愛されず、誰からもバカにされ、侮蔑され、虐待され、利用されつくして捨てられた。あの地獄の日々。


 龍郎だけが真実の愛を教えてくれた。

 この世には、まだ信じられるものもあるんだと、全身全霊をもって知らしめてくれた。


 その人が穢されることは、青蘭のなかに満ちた光も、どす黒い汚穢おわいに染まることだ。

 青蘭を洗ってくれるはずだった聖なるもの。失われてしまう……。


(僕のなかに清らかなものは、もう何もない。だから……だからこそ……)


 龍郎だけは綺麗なままでいてもらいたい。


「アンドロマリウス! 契約だッ! 僕の体のどこでもいい。好きなところを持っていっていいから、アイツを——クトゥルフを倒せ!」


 しかし、返事はない。

 アンドロマリウスは今、青蘭の体内にいない。


 青蘭は泣いた。

 泣きながら、魔王を呼んだ。


「頼むよ。もう一度、僕に力を貸して。アンドロマリウス。僕のなかに戻ってきて。僕の命を……あげるから」


 ぽろぽろとこぼれる涙の粒が、アスファルトをぬらす。


 すると、青蘭のポケットが光った。青い光が水のようにあふれて、まるで青蘭のまわりだけ深海のように揺らす。


 目の前にアンドロマリウスがいた。

 本性の姿を見るのは初めてだが、彼だとわかった。

 白い巨大な蛇だ。


「本当に? 青蘭。ほんとに自分の命をなげだしてもいいのか?」

「うん。いいよ。龍郎さんのためなら、命もいらない」

「おまえもわかってるだろうが、おれと契約を続けていくと、最終的におまえの体はすべて、おれのものになる」

「そうなるね」

「そのとき、おまえ自身がどうなるか、怖くはないか?」

「怖くない」


 青蘭は断言した。


「だって、僕はおまえと出会ったとき、死ぬつもりだった。世界中の何もかもに絶望して、嫌気がさしてた。悪魔を喰い続けないと快楽の玉の力が失われるから、ずっとおまえと悪魔を退治してきたけど、それだって好きでしてたわけじゃない。いつ死んでもよかったんだ。龍郎さんと出会うまで、僕は生きながら死んでた。僕が息をふきかえしたのは、龍郎さんのおかげだ。もう一度、生きてもいいと、龍郎さんが僕に思わせてくれた」


 アンドロマリウスは微笑したようだった。蛇の姿だから、表情はわからなかったが。


「ほかの男のために必死になるおまえは憎い。が、可愛くもある。青蘭。約束してくれるか?」

「何を?」

「いつか、おれのために、あの唄を歌ってくれると」

「あの唄?」

「約束するなら、今一度、契約しよう。いいな?」

「わかった」


 蛇の姿が薄れていく。


 ころんと、青蘭のポケットから何かがころがりでた。アンドロマリウスが渡してきたという、あの小箱だ。

 青蘭がひろいあげると、自然に鍵があいて、蓋がひらいた。


 そこに青白く輝く小さな蛇が入っていた。銀色の金属のようにも見える。ほんの数センチほどの小さな小さな蛇。蛇はスルスルと這って、青蘭の口のなかに入ってきた。


 その瞬間に、青蘭は言葉にはできない感覚を味わった。人の姿の蛇神が、そっと青蘭のひたいの火傷のあとにキスしたような気がした。


 焼けるように熱い……でも、たまらなく心地よい。歓喜が身内からほとばしる。


 青蘭は自分のなかの魔王に命じた。


「アンドロマリウス。命令だ。クトゥルフを倒せ」


 魔王はそれを遂行した。


 青蘭の全身から光輝が発し、恐ろしくいびつで醜い化け物は、粉々にくだかれた。青く光る粒子となって、青蘭の口に吸いこまれる。


 人魚や悪魔たちが、青蘭の前にひれふす。青蘭のなかにいる魔王に敬意をはらっているのだ。


「……悪魔の軍団を従える闇の天使、か」


 神父のつぶやきは、青蘭の耳には届かない。


 青蘭は駐車場に倒れた龍郎のもとに急いだ。龍郎はどこかを怪我しているらしく、服に血がついている。


「龍郎さん。しっかりして。龍郎さん!」


 声をかけると、恋人は目をあけた。

 青蘭は涙がこみあげてくるのを感じた。


「よかった。生きてた」

「……青蘭。おまえを残して、死ねないよ」


 龍郎の微笑みは世界中の黄金よりも価値が高いと、青蘭は思った。

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