第5話 事故なのか

「事故です!」


 河野さんの奥さん――河野幸恵の第一声はそれでした。


「きっと事故です! そうじゃなかったら……この人は誰かに殺されるほどひどいことなんて何もしていません……!」


 泣き崩れる幸恵さん。その後ろでは彼女の息子が一人、怯えた目で警察官たちを伺っていました。九歳ぐらいです。


 まあ、無理もありませんね。父親が死んで、母親が狂乱状態なのです。


「あっ」

『あっ?』


 息子くんと目が合ってしまいました。ばっちりとです。彼はじーっと私を見ています。警察と行動しているちびっこなんて物珍しいのでしょう。


 はぁ……仕方ないですね。彼から情報収集するとしますか。


 私は靴を脱いですたすたと廊下を進み、柱の陰に隠れていた息子くんに歩み寄りました。


『おい』

「えっ、うん」

『お前、名前は?』

「……省吾。河野省吾」

『そうか。私は小鹿ひばなだ。ほら、握手』


 くまさんパペットを差し出すと、おずおずと省吾くんはそれを握り返してきました。私は一瞬の隙をつき、彼の腕と顔にパペットをがぶがぶ噛みつかせました。


「えっ、うわっ、あははっ、やめてよぉ」


 リラックスした少年の笑顔、一丁上がりです。ふふ、私にかかればこんなものです。ちょろいちょろい。


『省吾。お前は何が起きたのか把握しているか』

「うん……」


 省吾くんは私のパペットをぎゅっと握りながらぼそぼそと答えました。


「朝起きたらお母さんの悲鳴が聞こえて、お風呂場に行ってみたら、お風呂に、お父さんが……」


 あちゃー。父親の死体をもろに見てしまった系ですか。


 浴槽に沈んだ状態で見つかった河野夫の死因は、まだ不明です。普通に考えれば溺死ですが……それにしてはなんだか違和感があるんですよねえ。


 先ほどちらりと見えた現場を思い浮かべます。遺体があった場所に貼ってあるテープを見るに、河野夫の左腕は浴槽から出ていたみたいです。


 浴槽の端をつかんでいたのなら、ただの溺死とは考えづらい。だとすれば……電化製品がお湯に落ちたことによる感電死、ですかね?


 まあそんなことはどうでもいいのです。それはあくまで鑑識さんのお仕事ですから。


『いくつか聞きたいことがある』


 首をかしげながらパペットをぱくぱく動かします。


『お前の父親と仲がいい小説家がいるだろう』

「……ええと、赤田さん?」

『そう、そいつだ』


 情報通り河野智彦は赤田十夜と親交があったようです。この分だと家族ぐるみというやつでしょう。


 しかし、省吾くんはちょっと目を泳がせてからおそるおそる告げました。


「あの、赤田さんが仲がいいのはお父さんとじゃないよ」


 おや、そうなのですか。


「僕のお母さんと赤田のおじさんが仲良しなんだ」

『そうなのか』

「うん。よくうちにお茶をしに来てたよ。お母さんも嬉しそうだったし、仲良しだったんだと思う」


 ほうほう。これは重要情報かもしれませんね。真剣に推理をする気はありませんが、水無瀬を放つのならこちらの家も巻き込んだ場所がいいですね。


 ふむふむ考え込んでいると、省吾くんは不安そうに私をうかがっていました。


 そうだ。もののついでにもう一件の疑惑についても確認しておきましょうかね。


『おい。それ以外に、変な奴を知らないか。お前も赤田の家には遊びに行くこともあっただろう』

「え? あ、うん」


 省吾くんは目を伏せて考え込み、数秒経った後、私のほうにちらっと視線を向けました。


「変な……っていうのは分からないんだけど」

『なんだ』

「僕が小さいころから、よくわからない男の人はうちにやってきてるよ」


 よくわからない男の人? その形容がまずよくわかりませんね。もっと詳しくお願いします。


「多分、お父さんのお仕事の人だったんだと思うんだけど……」

『どんな奴だ』

「背が低くて、大きなカバンを持った男の人。いつも猫背だった」


 うーん。いまいち具体的な手がかりがありませんね。子供の記憶です。これ以上の情報は見込めないでしょうか。いや、子供の記憶というものは結構馬鹿にできな――


「な、何やってるんですか水無瀬さんーっ!?」


 家の奥から響いた悲鳴に近い声に、私はバッと顔を上げました。狸さんの声です。嫌な予感がします。


 私は省吾くんを置き去りに、廊下を全力疾走して声の出どころに飛び込みました。キッチンです。


『水無瀬ェ!』

「見て、バンビさん! この床、いい音がする!」

『はしゃぐな、馬鹿!』


 無駄に長い足でキッチンの床をばたばたと踏み鳴らしていた水無瀬に近づきます。


『ちょっとかがめ!』

「え?」


 水無瀬は素直に腰を折りました。私は右手のパペットを思い切り突き上げます。


 パペットアッパー!


「ぎゅに!」


 綺麗に顎に決まった一撃に、水無瀬はしゃがみ込んで悶絶し始めました。まったく、油断も隙もありません。


『はぁ。水無瀬はもう持って帰る。現場検証が終わってからまた呼べ』

「あ、はい」

「えーっ、まだ帰りたくない!」

『うるさい、帰るぞ!』


 騒ぐ馬鹿の手を引いて玄関に向かいます。すると、封鎖された門の向こうで見たことのある顔が立っているのに気が付きました。


「あの、何かあったんですか?」


 赤田十夜です。薄いノートパソコンを片手に持っています。その隣には不安な面持ちの妻、赤田利美もいます。


 警官に一言二言説明された十夜さんたちは、素っ頓狂な声を上げました。


「えっ、河野さんが死んだ!?」


 二人とも驚愕の面持ちです。まあ、そういう反応になりますよね。その時、一瞬の隙をついて、私の手から逃れた水無瀬は、二人に駆け寄っていきました。


「聞いて聞いて! この家、キッチンの床がいい音する!」


 なんの報告ですか馬鹿!


「突然なんですか、あなたは……」

「あのねあのね、十夜さん泥棒かなって思われてるんだって! 泥棒なんて大変だよね! 捕まったらどうしよう!」


 水無瀬ェーーー!! どうしてお前はこう!


 ですがその瞬間、十夜さんとその奥さんの顔色がサッと変わった気がしました。おやおやおや? これは何か関係ありそうですね。


 私の隣に立っていた狸さんも、どうやらその表情の変化に気づいたようでした。


「赤田十夜さん。あなたのパソコンとスマホも押収させていただきますね」


 十夜さんは露骨に顔をしかめました。


「何故ですか。私は関係ありませんよね?」

「念のためです。河野さんはあなたと親交が深かったようですから、手がかりがあるかもしれません」

「そんなものありませんよ」

「でしたら渡しても問題はありませんよね? それとも見られて困るようなものでも?」


 十夜さんはうなるような声を上げ、スマホとパソコンを狸さんに手渡しました。狸さんは手袋をはめた手でそれを受け取ります。


 よくやった狸! 見事な言いくるめです! はなまるをあげましょう!


「ねえねえ。それ、何が入ってるの?」

『水無瀬、もう行くぞ』

「ええー」

『行くんだ!』


 私は水無瀬の手をひっつかみ、帰り道をのしのし歩いていきました。



 そして翌日の朝。遅めのモーニングコールは狸さんからでした。狸さんからの呼び出しで、私たちは近所の喫茶店に向かいます。


 指定された喫茶店の奥まった席で、狸さんは待っていました。


「やったー! ケーキ!」

『こぼすなよ』

「うん!」


 水無瀬は元気な返事をすると、ケーキの先端にフォークを沈めました。


「彼が事件に関係しているという証拠は出ませんでした」

『そうか』


 まあ、そう簡単に証拠が出るはずもありませんよね。私は目の前のクリームソーダの氷をカランと鳴らします。


 狸さんはそんな私をじっと見つめた後、何かを言いたそうな顔でそわそわし始めました。


『何か気になることでも?』

「……おかしなことが一つあるんです」


 何でしょう。


「赤田十夜のパソコンには、これまで書いた小説のファイルがどこにもなかったんです」


 グラスに触れそうなほど顔を寄せて、狸さんはささやきました。私は唇についたクリームをぺろっと舐めてから答えます。


『……別の媒体に保存してあるんじゃないのか』

「そうですよね。捜査一課でもそうだろうって言われています。でも……一つもファイルがないというのは不自然じゃありません? 普通、こういうファイルはUSBの他にパソコン側にもバックアップを取るものでは?」


 確かに一理あります。


『他に手がかりは』

「あ、はい。指紋の照合も終わりました」


 狸さんは手にした書類をぺらりとめくりました。


「感電死の原因とみられるバスタブに落ちたドライヤーからは、河野一家の指紋しか検出されませんでした。拭き取られた形跡もありませんし、外部犯だとすれば衝動的なものではありませんね。もしくはやはり事故か……内部の犯行か」


 言いたいことはなんとなく理解できました。隣ではケーキを一口食べた水無瀬がフォークを置いたところでした。


「んー。ケーキ飽きちゃった。はい、バンビさんあげるね!」

『貰う。河野さんの奥さんの犯行だと?』

「その可能性もあるという話です。一課はその線で捜査を進めるそうです。ただ……これが真実なんて残酷すぎます。母が父を殺したなんて、息子の省吾くんはどう思うか……」


 私は水無瀬から寄せられたケーキのフォークを持ち上げ、いちごに突き刺します。


『そうか』


 いちごを口に運びます。口の中で甘酸っぱい果汁がじゅわっと広がりました。おお、当たりですね、ここのケーキ。行きつけリストに入れておきましょう。


 黙々とケーキを食べ進める私を、狸さんは困り眉のまま見つめていました。私は時間をかけてじっくりそれを堪能した後、ストローの袋で遊んでいる水無瀬に振り向きました。


『水無瀬、事件はもう終わったと思うか』

「んー」


 水無瀬は机にべろんと伸び、私にこてんと顔を向けてきました。


「もうすぐ終わる?」

『そうか。どこで終わる』

「河野さんち!」

『そうか』


 私も同感です。推理をする気はありませんでしたが、ほんの少しだけ今から起きることは私にも察することができていました。


 つまり、河野家で面倒事がこれから起こるということに。


『じゃあ見届けに行こうか。事件が『終わる』ところをな』

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