第30話 おままごと

 託児所。寝ぐせのように髪が跳ねまわった彼の頭が、落ち着きなく左右に揺れていました。学ラン姿の水無瀬さんです。


「ねえバンビちゃん、遊ぼうよ! 子供は遊ぶのが仕事なんだよ! お母さんが言ってた!」


 困惑。ただただ困惑です。確かに一人は寂しいとは思っていましたが、こんなのは望んでいません。


「親戚の小さい女の子は遊んであげるものなんだって。お父さんが言ってた!」

「え……」


 何なんでしょうこのお兄さん。あまりに変な人すぎるのでは?


 おそるおそる彼の顔を見上げると、彼はじっと私の返答を待っているようでした。遊ぶということは決定事項のようです。


 私はうんと考えて、とぎれとぎれに言いました。


「おままごと、したい、です」


 実はあこがれのごっこ遊びだったりします。保育園の類には通っていませんでしたし、そもそも普段はあまり外にも出してもらえていません。小学校、行きたかったなあ。


 そのおかげですっかり本とアニメとネットだけに教育されたコミュ障の出来上がりです。


 今回だって留守番じゃないのは奇跡なのです。普段からあまり声も出していませんから、喉だって張り付いてしまっています。きちんと伝わってくれているといいのですが。


 私の言葉に水無瀬さんはちょっと動きを止めた後、大きくうなずきました。


「うん! じゃあおままごとしよっか!」


 よかった。言葉は伝わっていたようです。しかし、水無瀬さんは首をこてんと傾げて尋ねてきました。


「おままごとってどうすればできるの?」


 そこで困られてもこちらも困ります。私はうんと考えた末に、ぼそぼそと言いました。


「水無瀬さんは、お兄さん。私は、妹がいい」


 これも実はやってみたかったことです。とても年が離れた兄は私を見ようともしませんから。くっ。悲しくなんてないんだからね。


「いいよ! 君は僕の妹。わかった!」


 胸を張って水無瀬さんは宣言します。そして、私のわきの下に手を入れました。


「お兄さんだぞー! ほら、たかいたかー……」


 水無瀬さんはうんと足を踏ん張って私を持ち上げようとしました。しかし腕がぷるぷると震えるだけで私の体は動きません。


「ううっ、重い。持ち上げられないや……」


 レディに失礼な人ですね。私が暴力的な人間だったらぶん殴られているところですよ。


「お兄さんって他に何すればいいのかな」


 困り果てた顔で、水無瀬さんは私に尋ねてきます。私は再び考え込み、きょろきょろと辺りを見回した後、部屋の隅のおもちゃ箱を指さしました。


「ぬいぐるみで、遊んだり?」

「ぬいぐるみ! 待ってて、今取ってくる!」


 ばっと駆け出して戻ってきた水無瀬さんが持ち帰ってきたのは、ぶさいくな顔のパペットでした。


「こんにちは、僕、お兄さんだよ!」


 ぱくぱくと口を動かして水無瀬さんは言います。私はその勢いと違和感がありまくる言動に、思わずふふっと息を吐き出していました。


「あっ、笑った!」


 水無瀬さんは私に飛びつき、私の顔をぺたぺたと触ってきました。頬をつまんで横にぐーっと引っ張ってきます。痛いです。


「笑ってるほうがかわいいよ。きっと、多分ね!」





 強烈すぎる思い出です。十年ほど経った今でもはっきりと思い出せます。


 まさかそんな人との再会が、あの時と同じような大きくて綺麗なホテルで起こるだなんて。まさか神様はそんな偶然を仕込んだというのでしょうか。私、神様は信じていませんが。


「優宮家のご令嬢とお会いできるなんて光栄です」

「ははは、この子は本当に箱入りですからな。こうでもしなければ、家に引きこもってしまうのですよ」


 優宮というのは今回私に与えられた偽名です。『優宮聡子』。それが今の私の名前でした。


「では、あとは若いお二人で」


 何か小難しいことを話していた父親役の男性がとんでもないことを言いだしました。


 ちょっと! 水無瀬さんと二人きりにしないでくださいよ! まだこの気まずい状況を打開する方法も思いついてないのに!


 そんなこんなで私と水無瀬さんはホテルの中庭に追い出されてしまいました。何ですか、植物を鑑賞しながら交流しろとでも言うんですか。


 隣に立つ水無瀬さんをそっとうかがうと、彼は私には目もくれずに飛んでいるちょうちょを見ていました。


 ああ、変わってないですね。記憶の中通りの変人です。


 とにかく、何か話すべきでしょう。妙度さんが何をしようとしているのかはわかりませんが、状況を進めるのを彼女は望んでいるはずです。


 これはお仕事。お仕事なのですよ小鹿ひばな。


「あっ、あの、水無瀬、さん」


 声がかなりとぎれとぎれになってしまいました。あの頃よりずいぶん身長が伸びた水無瀬さんは、背の低い私を見下ろします。


「ん、何? 優宮さん」


 あの頃より若干、本当に若干ですが、大人びた視線が私に向けられます。私はてんぱってしまって、ぐるぐるとめぐる思考の中、思わず尋ねてしまっていました。


「わ、私のこと、覚えてますか」

「え?」


 水無瀬さんはきょとんとした後に、こてんと首をかしげました。



「うーん、優宮さんには会ったことないはずだけどなあ」



 ずしんと腹の底に石でもたまったかのような感覚がありました。水無瀬さんは相変わらずにこにこと笑っています。


「……お手洗いに行ってきます」


 やけに早口な言葉が口から出ました。だけど声は震えてしまいました。


 私は踵を返すと、動きづらい着物のまま、飛び石を踏んで庭から立ち去りました。


 そのままの勢いで早足で歩き続け、私はお手洗いの前にたどり着きました。そこで耐え切れなくなって私はしゃがみ込みます。


 覚えていなかった。ただそれだけなのに、どうしてこんなにショックを受けているのでしょう。


 ドラマチックな再会? 恋愛に発展? そんなものを期待していたとでもいうのでしょうか。


 馬鹿です。馬鹿馬鹿。そんな映画みたいなこと起こるはずないじゃないですか。


 今すぐこの着物を脱ぎすててホテルの外に逃げてしまいたい気持ちを飲み込んで、私はこぶしを握り込みました。


 駄目ですよ、小鹿ひばな。これはお仕事なのです。報酬がある以上、途中で逃げるわけにはいきません。一度引き受けた仕事を放り投げるということは、信用にかかわってくるのです。これは妙度さんの受け売りですが。


 私は大きく息を吐いて立ち上がりました。


 大丈夫。あとちょっとお話をすればそれで終わりです。そうすればもう二度と彼と会うこともないでしょう。


 ちょっと懐かしい思いになった。ただそれだけの事件だったのです。


 その時、私の腕を背後から掴んでくる人物がいました。


「こんにちは、お嬢さん」

「えっ」


 振り向いた私の目の前にいたのは、スタンガンを持ち上げた清掃員姿の男性でした。


「一緒に来てもらおうか」


 バチッと電流がはぜる音が耳に響きます。その音を聞き終わらないうちに、私は全身から力が抜けていくのを他人事のように感じていました。

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