六条子羽は人でなしである
第16話 昔話を始めよう
頂上葉佩は姿をくらませました。どろんと消えたわけではありません。包囲していた警官隊の隙をついて、武装した方々の運転する車で悠々と逃げていったのです。
そして彼との邂逅の翌日、いつも通り水無瀬は私の事務所にやってきていました。まるで昨日見せた顔は嘘のように。昨日の邂逅なんてなかったかのように。
「バンビさんどうしたの?」
わざと彼を見ないようにしていたのがバレたようです。私は尋ねられても水無瀬のほうを向く勇気が出ませんでした。
多分、いつまた私の知らない顔をするのかと思うと、怖かったのです。
「お腹痛い? 苦しい? 怖いとか?」
にこにこしながら水無瀬は私を覗き込んできます。彼の視線から逃げること数十秒。水無瀬は珍しく困ったような表情になりました。
「言ってくれないと分からないよ……」
ちくりと記憶の隅に引っ掛かる気持ちがして、私は彼に目を向けようとしました。しかしその直前、そんな私の行動を遮る音が響きました。
「お邪魔するよ。どうぞどうぞ。それはよかった」
ゲェッ! この声は!
ずかずかと入ってきたのは予想通りの人物、六条子羽でした。何の用でしょうか。昨日の今日でそっとしておくとかそういう神経はないのでしょうか。
「聞いてよ鳥ちゃん。バンビさんがなんだか変なの。落ち込んでるのかな? 悲しいのかな? 何をしたらバンビさんが笑ってくれると思う?」
水無瀬は六条さんに駆け寄り、ぱたぱたと腕を動かしながら訴えます。六条さんは水無瀬を見て、私を見て、事情を察したようでした。
「あーそういえば、ここから三駅隣のケーキ屋さんのシュークリームを食べたいって、小鹿ちゃんが言っていたなあ」
ぱぁっと水無瀬の表情が明るくなりました。
「買ってくる!」
財布をひっつかみ、騒がしく水無瀬は出ていきます。六条さんはよいしょっとか言いながらソファに腰かけました。
『何の用だ。水無瀬を追い出して』
「……君には説明する義務があると思ってね」
立ち上がる気にならなくて所長席から問うと、気分を害した様子もなく六条さんは答えました。
「本当はこんな日が来ることがなければよかったんだが」
含みのある言い方です。私は彼を睨みつけながらパペットを動かしました。
『何の話をするっていうんだ』
六条さんはソファに背中を預けると、まるでくたびれた老人のような疲れ果てた表情をしました。
「水無瀬くんと頂上葉佩の学生時代の話だよ」
*
四十九歳の六条子羽は、慶早大学に足を運んでいた。彼がここに来るのは初めてではない。この大学に籍を置いている教授に、刑事である彼は用があるのだ。
「おお、六条くん。よく来たね」
「この間ぶりです、佐道教授」
手狭な研究室に入ると、いつも通り犯罪心理学の権威である佐道洋輔教授に出迎えられた。警視庁はたびたび、彼に凶悪事件のプロファイリングを頼んでいるのだ。
「今回はどんな事件だい?」
六十歳を超えた佐道教授は、柔和な笑みのまま言う。六条はカバンから資料の入った紙袋を取り出そうとした。
「これです。連続傷害事件なのですが……」
「しっつれいしまーす!」
派手な音とともに研究室のドアが開き、六条は驚きで資料を取り落としてしまう。
入ってきたのは満面の笑みを浮かべた青年だった。若干童顔で、テンションかかなり高い。酔っぱらっているのではないかと疑うほどだ。
「こら駄目だよ水無瀬くん、勝手に入っちゃ」
続いて入ってきたのは、丸眼鏡に気弱そうな目をした青年だった。先に来た青年に慌ててついてきたといった風だ。彼は六条を視界に入れると慌てて頭を下げてきた。
「あっ、お客さんでしたか、すみません」
六条は混乱しながらも「あ、ああ」と答える。
おそらく二人ともこの大学の学生だろう。それにしては一人目の青年の言動は幼いように思えたが。
「おじさん誰? 刑事さん?」
一人目の青年は、六条の前にしゃがみ込んで下から目を覗き込んできた。笑顔だ。だけどなんだ、この違和感は。
「私は確かに刑事だが……」
なぜわかったのか、と言葉を続ける前に、青年はぴょこっと立ち上がり、六条の手を握ってぶんぶん動かした。
「わーい刑事さんだ! 刑事さん刑事さん!」
「え」
「刑事さんって知ってる! 犯人に銃を向けてぱんぱーんって!」
青年は手を銃の形にしてぐるぐるその場で回転した。
「犯人を捕まえるのってどんな気持ち? 銃って好き? 手錠ってどうやって外すの?」
ぱたぱたとせわしなく動き回る青年の肩をもう一人の青年が捕まえる。
「もー、初対面の人にそんなことしないの! ほら。行くよ水無瀬くん。失礼しました!」
「待ちなさい、二人とも」
破天荒な青年と苦労人そうな青年を教授は呼び止める。怪訝な目を彼に向けると、彼はおおらかな表情で笑っていた。
「紹介しておくよ。二人とも、犯罪心理学については優秀な生徒なんだ。もしかしたら君の役に立てるかもしれない」
教授が二人の行動に驚いた様子はない。この騒ぎは日常のことなのだろう。彼はまず気弱そうな青年を指した。
「彼が頂上葉佩くん、こっちは――」
「水無瀬片時! よろしくね、刑事さん!」
笑顔が貼りついた表情で、水無瀬片時はにこにこ笑う。
胡散臭いピエロのような青年。それが、水無瀬片時の第一印象だった。
「ねえ、刑事さんのお名前は?」
にこにこ笑いながら水無瀬という青年は尋ねてくる。六条はこちらも愛想笑いをしながら答えた。
「六条子羽だよ、水無瀬くん」
「そっか! じゃあ鳥ちゃんだね!」
「は?」
鳥ちゃん、鳥ちゃーん、とか言いながら狭い研究室を水無瀬は動き回る。頂上はそんな彼をあわあわと見た後、六条にぺこぺこ頭を下げてきた。
「す、すみませんすみません! 彼って変なあだ名をつけちゃう癖があって!」
「変じゃないよ。ね、さっちゃん教授?」
「はははは」
教授は鷹揚に笑う。失礼で破天荒なこの男を、二人は許容しているように見えた。
「さ、話に戻ろう。六条くん、さっきの資料を彼らにも見せてあげてくれないかな」
六条は少しためらった。いくら優秀な学生相手とはいっても、捜査資料を一般学生に見せていいものか。
だが教授は意見を変える気はないようだ。
……ここは教授の顔を立てると思って渡してみるか。
六条は拾い上げた封筒から書類の束を取り出し、机の上へと広げた。都内で最近起きている連続傷害事件の資料だ。犯行現場を示した地図、犯人の目撃情報、被害者の証言、傷の状態。
それらにざっと目を通した教授は、二人の生徒に声をかけた。
「君たちはこの事件をどう見る?」
「んー?」
「ふぎゅっ」
かえるがつぶれたような声がして目を向けると、そこには腰を曲げた頂上の上にのしかかる水無瀬の姿があった。
「み、水無瀬くん重いよ……」
ぷるぷると腕を震わせる頂上をよそに、上の水無瀬は涼しい顔だ。
「ん? ちょうどいいところにいるなって思って?」
「もー!」
文句を言いながらも頂上は水無瀬を引きはがそうとはしなかった。きっとこれも日常なのだろう。
そのままの姿勢で頂上は無言で資料に目を通し、ふうと息を吐いてから語り始めた。
「ええと、証言と外傷の状態から見るに、最初犯人は突発的に犯行に及んだと思われます。その成功体験から犯行を繰り返しているのかと。斜め上からの殴打なので、身長は175センチ以上。二度目の証言では男とされていますが、突発的な最初の事件では姿を見られていないので、偽装の可能性もあります。被害者と犯行場所から考えると、見た目にコンプレックスがあるかもしれません。自宅と犯行現場は意図的に遠ざけていますが、移動距離に限界がありそうです。自由に活動できる時間が原因かもしれません。年齢はおそらく精神的に未成熟な十代後半から二十代前半……ですかね?」
捜査課や科学捜査研究所の見解と一致する情報をすらすらと述べる頂上に、六条は目を見張る。優秀な生徒だというのは本当のようだ。
教授は満足そうに頷くと、相変わらず頂上にのしかかって肩ごしに資料を見ている水無瀬へと目を向けた。
「そうか。水無瀬くん、君はどう思う?」
「ん。てっぺんくんの意見にさんせーい。あ、でも……」
水無瀬は一度言葉を切った後、こてんと首をかしげた。
「犯人の年齢は間違ってるかも?」
「……ほう」
「これ、二十代前半の仕業じゃない。三十代……いや、四十代の可能性もあるよ」
教授は少しだけ目を細めてから、口元に笑みを浮かべた。
「何故そう思うのかな?」
「んー、なんとなくー?」
水無瀬は頂上の上から体を離すと、その場でぐるぐると回り始めた。
「あーもう、そんなことしたら机の上の資料が落ちちゃうでしょ! あー!」
にこにこ笑う水無瀬と、必死で落ちた資料を拾う頂上。教授は彼らに頷いてみせた。
「二人とももういいよ。協力ありがとう」
水無瀬はぱっと表情を明るくすると、ぺこりとこちらにおじぎをしてから部屋の外へと駆け出していった。
「失礼しますっ! てっぺんくん、購買でウエハース買おう! シールついてるやつ!」
「し、失礼します……」
慌てて彼の後ろを頂上はついていく。ばたんとドアはしまり、文字通り嵐が去った研究室で六条はぽかんと口を開けていた。
「す、すごい学生ですね……」
「あれでも礼儀ができてきたほうなんだよ」
えっ、と六条は思わず声を上げる。教授は苦笑いをした。
「ちゃんと「失礼します」って言えてるだろう?」
「ああ、それはそうかも、しれませんが」
好き放題に散らかされた資料を教授は一枚一枚拾っては整えていく。
「あの子、他の科目は落第寸前なんだよ。でも追試を受けさせると合格するから、おそらくまじめにやる気がないんだろうけれど、困っちゃうよね」
「はぁ……」
あっけにとられたまま六条は間抜けな返事をすることすらできない。教授は手を止めて悲しそうな顔になった。
「でもね、六条くん。あの子には大学にいてもらわないと困るんだ」
「……と言いますと?」
その表情の意味が分からず、六条は尋ね返す。教授は資料の角を何度も人差し指ではじいていた。
「あの子、小論文で入学してきたんだけどね、その内容が異常すぎたんだよ。具体的には形容しがたいのだけれど、とにかく一般社会にこのまま放ってはいけない。大学に隔離しないとと思って合格させたんだ」
学生課には内緒だよ? と教授はお茶目な顔で笑う。
「専門知識はあるはずなんだけどすぐに忘れてしまうんだろうね。だから無意識のうちに知識を活用して推論を立てている、のだと私は思うよ。それか超能力者なのかな?」
非科学的なことを教授は言う。六条は戸惑いながらなんとか感想を述べた。
「それはなんというかその、とんでもない子ですね」
「まあでも、研究者というものは変人でないとつとまらないさ。……ああ、ちなみに私の見解は水無瀬くんと同じだよ。どうぞ捜査に役立ててくださいね」
はい、とまとめられた資料を教授が差し出してくる。
それは――六条子羽があの悍ましい猟奇殺人事件に出会う数ヶ月前の話だった。
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