第32話 受け止めて!
「もう十分もすれば、私たちもそこにたどり着くよ。ちゃんと捕まらないように逃げまわってね」
それだけ言うと、妙度さんは黙ってしまいました。ひどい。打開策とか教えてくださいよ。
しかし、ないものねだりをしても仕方ありません。彼女の言う通り、できる限りのことはしてみましょう。
まず何もせずに再び廊下に出るのは得策ではありません。私を探し回る怖いおじさんたちに捕まってしまうのが関の山でしょう。
だとすれば、この部屋にあるものを利用するべき、ですかね。
パチンと照明をつけると、狭い室内が照らされます。寝室のようです。普段は使われていないのか、どの家具にもほこりが積もっています。
ベッドが一つ、机が一つ、椅子が二つ。それから――窓が一つ。
棚の類はありません。見回す限りのものだけで生き抜くしかないようです。
私は窓に近づき、カギを外して押し開いてみました。はるか下に地面があります。木々や落ち葉が降り積もっていますが、あそこに落ちて運よく生き延びられたとしても怪我は免れません。それでは折角脱出しても逃げられません。
私は一旦窓から離れ、ベッドや椅子を確かめ始めました。しかし探れば探るほどごくごく普通のベッドと椅子です。せめてどこかに収納機能でもあればいいものを。
どうしましょう。椅子で殴りかかるというのもありですが、椅子を引きずって走るというわけにもいかないでしょう。
とすれば今の私にできるのは一つ。この部屋の中で見つからないことを祈りながら隠れ続けるということだけでしょう。
十分です。十分だけかくれんぼに勝利すればいいだけです。自慢じゃないですが、私、息をひそめるのは得意ですよ?
私はベッドのシーツをはぎ取ると、それをかぶって部屋の隅にうずくまりました。
私は置物、私は置物。何の変哲もないただの家具ですよー。
だけどこういう時の祈りは通じないものです。残念ながら。
シーツの向こう側でがちゃりとドアを開ける音がしました。
うぎゃー! 来ないで! 私は家具です!
しかし侵入者は私に近づくと、かぶっていたシーツを勢いよく剥いできました。
「かくれんぼは終わりだぞ、お嬢ちゃん」
私を見下ろした男がにやりと笑います。私は慌てて立ち上がって、窓に飛びつきました。後ろで男が声を上げるのが聞こえてきます。
もー! こうなったら、一か八かです!
神様ー! 今だけ私に力を!
私は窓枠を踏みしめて、窓の外に飛び出ました。体勢を整えることもできないまま私の体は落下を始めます。三階、二階、一階、地面へと――
「バンビちゃん!」
聞き覚えのある声がしました。同時に、私は誰かの体を踏みつけました。
「……へ?」
間抜けな声を上げながら空を見ます。体はあまり痛くありません。どうやら誰かが私を受け止めてくれたようです。
「あたたたた」
体の下から聞こえてきた男性の声に、私は体を起こしてそちらを見ます。彼は私を見て破顔しました。
「あっ、やっぱりバンビちゃんだー!」
「水無瀬、さん……?」
私のこと、忘れてたんじゃ……?
その疑問は自然と口に出ていたらしく、彼は小首をかしげながら答えました。
「え? だって『優宮さん』には会ったことないもん。ね?」
何だそれ。何ですかそれ。
分かりづらいですよあなた。もっと言葉を選んで喋れないんですか。
「久しぶりだねえ、バンビちゃん。ちゃんと笑ってくれてた?」
嬉しさと驚きと恥ずかしさで、涙が薄く目元に浮かび、私はうつむきます。
「バンビはやめてください、私、もう大人です」
「そっか。じゃあバンビさんだね!」
にっこーっと無邪気に笑って水無瀬さんは言いました。
そういう問題じゃないんですが? ……いえ、そういうことを彼に言っても無駄でしょうね。
遠くでは警官隊が山荘に突入するのが聞こえてきました。これで一件落着でしょう。
私は色々なごちゃごちゃとした感情を乗せて、大きく息を吐き出しました。
あーあ。とんだ面倒事でした。後味から言えば、そこそこ悪くはないので別にいいんですが。
私は立ち上がり、腰をついたままの水無瀬さんに手を伸ばしました。彼はその手を取ろうとしながら、ふと思い出したように言いました。
「あ、そうだバンビさん」
なんでしょう。私が目をしばたかせると、水無瀬さんは満面の笑みで尋ねてきました。
「昔より重くなったね。太った?」
鮮やかなパンチが水無瀬の顔面にクリーンヒットしました。
*
思考整理を終えて、私はゆっくり目を開きました。
はぁ。いい思い出だったのに、最後の最後で台無しです。イライラします。
特に今の水無瀬に落ち度はありませんが、後でパペットパンチを食らわせておきましょう。
パペット5号機を取り出して、ぱくぱくと動かします。どうしてか毎回、微妙に不細工なやつを買ってしまうんですよね。今までのパペットもしっかり取ってありますが。
あの後、妙度さんは私にこの探偵事務所を譲り、水無瀬はここに入り浸るようになりました。
これも人の縁というやつでしょう。手に入れたのなら、大切にすべきなんでしょうね。
探偵事務所も、パペットも。
パペットを見つめながらなんだか感慨深い気分になっていた私でしたが――急に危険域に跳ね上がった臆病者センサーに、パーテーションの向こう側に振り向きました。
一瞬の後、ドアを吹き飛ばす轟音と暴風。
その勢いでひっくり返ってしまった椅子からすぐさま飛び起きます。机の引き出しを素早く引き開け、その奥にあった金属の塊を取り出しました。
小さな手には余るコルトガバメントの銃口を侵入者に向けようとします。しかしそれよりもずっと早く、武装した男たちがなだれ込んできて、私の顔を所長机に押し付けました。銃を握っていた手首はひねられ、あっさりと武装解除されてしまいます。
ぐちゃぐちゃになった床を踏んで、ゆっくりと彼は近づいてきました。
「はは、銃刀法違反だよバンビちゃん」
私の銃を拾い上げながら、頂上葉佩は穏やかに笑いました。
「ちょっと一緒に来てもらおうか」
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