水無瀬片時は人間か
第33話 笑顔の意味
自分で言うのもなんだけど、僕は素直で良い子だった。
両親の言うことは聞いてきたし、先生の言うことも、友達の言うことも聞いてきた。
「遊ぼうよ」「遊ぶ!」
「遊ぶと楽しいよ」「楽しい!」
「これはかっこいいよ」「かっこいい!」
「この子は可愛い女の子だよ」「可愛い!」
僕はちゃんと、みんなの言う通りにしてきた。ちゃんとみんなとおんなじにしてきた。好きって言われたら好きって返したし、一緒にいようって言われたら一緒にいた。ただの一度も間違えたことはないはずだ。
だけど、なんでかな。
僕が正しい反応を返しているはずなのに、どうしてみんなは僕から離れていくんだろう。
*
小鹿探偵事務所に鑑識が入ったのは、爆発音があってから十分後のことだった。
近隣住民の通報によって警察が駆け付けたころには、犯人とともに被害者と思われる探偵「小鹿ひばな」の姿はなかった。目撃者によれば、武装した人間たちが彼女を連れ去ったらしい。
さらに五分後、到着した田貫弓道が目にしたのは、小鹿探偵事務所の前で立ち尽くす水無瀬片時の姿だった。
「み、水無瀬さん……?」
小鹿ひばなが攫われたらしいという報告は田貫も受けている。小鹿さんによく懐いていた水無瀬がショックを受けていても仕方がない。
気づかわしげに田貫は、水無瀬の顔をそっと覗き込む。そして、硬直した。
水無瀬は、笑顔だった。
にこにこと、いつも通りに、楽しそうでいてどこか恐ろしい笑顔。
田貫は、怒りと恐怖がゆっくりと湧き出てくるのを感じた。
「どうして笑ってるんですか」
地を這うような声で水無瀬に問い詰める。
「小鹿さんが攫われたんですよ!?」
田貫が詰め寄っても、水無瀬は表情を変えなかった。それどころか、田貫に視線一つ向けないまま、水無瀬は踵を返してどこかに歩き出した。
「水無瀬さん!」
田貫の声は、水無瀬に届かなかった。
*
ネオンが輝く街から、一本裏に入った落ち着いた夜道。小さく輝く看板を通り過ぎ、水無瀬はバーのドアを開いた。
「いらっしゃいませ。お席はどちらに――」
「こんにちはー!」
場違いなほど快活な声での挨拶に、店内にいた客と店員の全員が彼に振り向いた。
そんな中、一番奥でタバコをくゆらせていた女性は小さく肩を震わせて笑った。
「おやおや、一人でここまでたどり着くとは」
彼女は真っ赤なルージュを塗った唇でタバコをくわえたまま、立ち上がって水無瀬に歩み寄った。
「やあ、私だ。妙度都築だ」
「こんにちは! 水無瀬片時です!」
「うんうん、いいお返事だ」
妙度はそんな好意的な言葉をかけた直後、タバコの煙を水無瀬の顔にフーッと吐きかけた。水無瀬は笑顔のまま動かない。
「一度君とは改めて話してみたいと思ってたんだよね」
水無瀬は答えない。妙度の唇は綺麗に弧を描いた。
「ここで話すのもなんだから、ちょっとお散歩しようか」
代金をツケにして店を出た妙度は、水無瀬を伴ってふらふらと夜の街から歩き去っていった。
街の光が徐々に遠ざかり、海の波音が届き始める。
「君はいつも笑っているね。怒ったふりも、悲しいふりもできる。だけど、根本はいつだってへらへら笑っている」
歩きはじめてから三本目のタバコを吸い終わり、妙度は切り出した。吸い殻は彼女の細い指によってピンと弾かれ、夜の海に消えていく。
「君は笑顔しか持ち合わせていないからだ」
妙度は水無瀬に向き直った。水無瀬は笑顔だ。
「他の表情もしてみなよ。ほら、君が今感じているものの通りにさ」
彼女は水無瀬に手を伸ばし、その顔に手を触れさせた。その指が頬に、唇に、目元に伸びる。
水無瀬はされるがままになっていたが、その表情は固まった笑顔のまま変わらない。
妙度はじっと沈黙した後、やがて痛ましそうに目を細め、彼から距離を取った。
「ああ。訂正するよ、水無瀬片時くん」
彼女はまるで大きくため息をつくかのように、その言葉を吐き出した。
「君には――その笑顔の意味すらも分かっていないんだね?」
水無瀬は笑顔のまま、こてんと首をかしげる。妙度は浮かべていた悲しそうな表情をころりと変え、ニッと笑った。
「世間話が過ぎたね」
四本目のタバコを取り出し、妙度はそれに火をつけた。かすかにタバコの甘い匂いが漂い始める。
「用件は分かってるつもりだよ。君は君の大切な人を取り戻したい。それともお友達との遊びの延長線上なのかな?」
水無瀬は答えなかった。表情は相変わらず笑顔だ。
「どちらにせよ私を頼ったのは正解だね。私を使うのは頂上くんに至る最短ルートだ」
妙度はちょっと嬉しそうに笑った。まるで、出来のいい生徒が結果を出して帰って来たかのように。
「いいよ。カナリアちゃんは私の愛弟子だしね」
彼女は軽く肩をすくめる。しかし、一度深くタバコの煙を吸い込んだ後、ついでのように言葉を発した。
「ああでも、一つだけ条件がある」
水無瀬は笑顔のまま首を傾ける。妙度は指に挟んだタバコで水無瀬を指した。
「知っての通り私は裏社会の人間でね。警察と行動するわけにはいかないんだよ」
ぱちぱちと目をしばたかせる水無瀬に、妙度は歩み寄る。
「つまりだね」
妙度はとてもとても楽しそうに笑んだ。
「今ここで警察を辞めなさい、水無瀬くん」
ほんの数秒後。
水無瀬が懐から取り出したのは、警察手帳とスマホだった。彼は何のためらいもなくそれを海へと投げ捨てる。どぽんと音を立てて、二つは海底へと沈んでいった。
「これでいい?」
いつも通りのふわふわした声色で水無瀬は言う。妙度は満足そうに笑った。
「ふふ、いいだろう。ついておいで」
水無瀬に背を向け、彼女は吸い殻を再び海に放り投げる。
「速やかに事件を終わらせようじゃないか」
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