第36話 最後の言葉
僕が引き金を引いたのとほぼ同時に、弾き飛ばされるかのようにバンビちゃんは床に倒れた。
彼女の手足は脱力し、銃弾に貫かれた傷口からじわじわと血だまりが広がっていく。
「どうかな、水無瀬くん」
ゆっくりと視線を水無瀬くんへと戻し――僕は目を見張る。
水無瀬くんの顔から、笑顔の仮面が、はがれていた。
無だ。
怒りも、喜びも、苦悶もない。
まったくの無。
背筋にぞくぞくと何かが這いあがる感覚がして、僕は目を細める。
「ねえ、君は今何を思ってる? 君は僕のことを……」
パンッ、と乾いた音が響いた。
ついで腹に鋭い痛みが走る。
「……え?」
思わず腹を押さえた手に、べっとりと血がついた。
撃たれた? 誰に? どうして?
振り返る。倒れたままのバンビちゃんが、パペットのそばで小型の銃を構えている。
あ、そうか。パペットに銃を仕込んでたんだ。
急激に血が失われ、足元がふらつく。どうやら当たってはいけないところに当たってしまったらしい。やけに冷静な思考がそう告げる。
『――やあ頂上くん。私だ。妙度都築だ』
パイプ椅子の隣にあった『仲間』との通信機から、ノイズ交じりの音が響いてきた。
『君の『仲間』たちなのだけどね。全員伸してしまったよ』
痛みで荒くなる息のまま、妙度さんの言葉を聞く。
『ふふ、私一人の力じゃないよ。水無瀬くんが持ってたお子様ケータイにGPSがついていたらしくてね。怖い怖い警察の皆様が船とヘリで追いかけてきたらしいんだ』
通信機の向こう側では、あわただしく大勢の人間が動いている音がしている。
『水無瀬くんも人が悪いねえ。警察とのつながりを残してるなら言ってくれないと』
責めるような口調ではない。むしろ楽しんでいるようだ。
『というわけで下階には警察官がうようよだ。みんな、犯人たちを避難ボートに連れていくのに追われてるけど、まあ紛れるのは難しいだろうね』
ふふふっと妙度さんは楽しそうに笑った。
『さあ君は、どうする?』
思考は、一瞬だった。
僕は傷跡を押さえながら、慌てて水無瀬くんから遠ざかり始めた。
多勢に無勢だ。このままでは水無瀬くんとの遊びを続けられない。体勢を立て直さなければ。
感覚が鈍くなる体を引きずって、豪奢な扉を開け、階段へと出る。下階はおそらく警察だらけだ。今は上階に向かうしかない。
手すりにつかまりながら、僕は階段を上り始める。ぼたぼたと血が垂れ、まるで道しるべのように床に残っていく。
結局、どうしてこうなったのだろう。痛みのせいで、考えている場合ではないことを考えてしまう。
彼にこちらを向いてほしかったのか。それはきっと正解だ。
彼に感情を与えたかったのか。それもきっと正解だ。
階段の踊り場で立ち止まり、荒く息を吐く。背後から、彼が追いかけてくる音が単調に響いてきた。
続いて爆発音が二回。足元が大きく揺れる。
爆弾は、残り一つ。
僕は、彼に与えようとした。彼から奪おうとした。人間を配置して、機会を与え、感情を向けさせた。僕は自分にできうる限りのものを、彼に向けてきた。
それに彼は何を返してくれただろうか。
……何も。何もだ。
彼は興味も、感情も、その視線すらも僕には向けていなかった。
悔しかったのだろうか。寂しかったのだろうか。意地になってしまったのだろうか。
わからない。そしてこれからもきっとわからない。
なぜなら僕はそういうもので、水無瀬くんもああいうものだ。
ドアを開ける。
肌寒い海風が吹き付けてくる。
展望デッキだ。
誰もいない。警察も、僕の『仲間』も。
デッキの中央まで体を引きずっていき、夜空を見上げる。都会の騒がしい光から解放された星屑が、はっきりと頭上に広がっている。僕は大きく息をした。
あれ。なぜ逃げないといけないんだ。
僕はもう、逃げなくてもいいじゃないか。
背後でドアが開く。僕は振り返る。水無瀬くんは数歩だけ歩いて、立ち止まった。
水無瀬くんと僕は向かい合う。今や彼は、僕を見つめていた。まっすぐに僕のことを、目をそらさずに。
僕は頬が少し歪んでしまうのを感じながら、握ったままだった拳銃を、彼の足元へと投げた。
「僕を殺しなよ、水無瀬くん」
床を滑っていった拳銃は、水無瀬くんのつま先に当たって止まった。
「いつだって君は善悪の彼岸に立っているんだ」
善でも悪でもない。
ただの『個』。
僕には絶対に手が届かない、純然たる『個』。
君と同じ世界を見たい。君と並んでみたい。
だけどその高みに行けるだなんて思っていない。
僕にできるのは、君をここまで引きずり下ろすことだけ。
君を、僕のいるこの『人間』の世界へと。
「水無瀬くん、君は今何を思ってるのかな」
腹からこぼれる血は、見る見るうちにデッキに滲んでいく。
本当に当たり所が悪かったらしい。膝が震えてしまって、もう立っているのもやっとだ。
「僕を殴りたい? 僕を殺したい? それとももしかして、自分を責めたい? ――さあ、水無瀬片時。君は善と悪のどちらに揺れる?」
海風が僕たちの髪を巻き上げる。
彼は、表情筋を微塵も動かさないまま口だけを動かした。
「てっぺんくんの話はいつも難しいよ。僕には善とか悪とか分かんないって」
一瞬の失望。
だけど、彼は一度だけ瞬きをした後、水無瀬くんは再び口を開いた。
「……あ、でもこれだけは言っておこうかな」
彼は、深く息を吸い込んで、ごくごく自然に吐き捨てた。
「“てっぺんくんなんて死んじゃえばいいんだ”」
その言葉は体中を駆け巡り、僕の中心のどこかへと浸み込んでいった。
「ふっ、アハッ」
吐き出した息が自然と笑い声となり、喉の奥から口へとせりあがってくる。
「アハハハハハ!」
吐き出された感情が、展望デッキ中に響き渡り、消えていく。
「そうだ、それが殺意だ! それが悪意だ!」
喉の奥から血の味がする。
肺から上ってきた血の泡を吐きながら、僕はふらつく足で一歩踏み出した。
「ようやく僕のところに落ちてきたね、水無瀬片時ィ!」
叫び声を彼にたたきつける。彼は表情を変えないまま、ただ僕を見ていた。
「知らないよ、そんなこと」
膝から力が抜け、僕は倒れこむ。水無瀬くんはそんな僕にあっさりと背を向けた。
「じゃあ僕帰るね。バンビさんのところに行かなきゃ」
カツカツと足音が遠ざかり、ゆっくりと音を立てて扉が閉まる。
船が揺れる。
最後の爆発が起きる。叫び声が聞こえる。
僕は体を丸め、血の味にまみれた口を少しだけ動かす。
だけど、小さくつぶやかれただけの言葉は、夜風にさらわれて誰にも届かなかった。
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