第2話 推理小説
時間は巻き戻って二日前。回想というやつです。時にはこうした思考整理も必要なのです。特にこんな面倒ごとに巻き込まれた時は。
現実逃避? なんのことやら。
これは師匠直伝の状況把握方法ですから、私が言い出したことではありません。
ともあれ、二日前の私は自分の探偵事務所で右手のパペットをいじっていました。
暇ですねえ。閑古鳥がカアカア鳴いています。
前に依頼が来たのは十日前。二日かけて片付けてしまいましたから、まるまる一週間、私は無為な時間を過ごしていることになります。
まあ、何事もなければそれでいいのですが。
私は自他ともに認める臆病者なので、面倒なことに巻き込まれずに済むのならそれが一番なのです。
……そんな私が何の因果か、探偵だなんていう面倒ごとに顔を突っ込まざるを得ない職業に就いているというのも笑えないジョークな気はします。
本当に笑えないです。いっそ笑いそうになるほど笑えません。
ですがそんなことは今更言っても仕方ありません。それよりも、今の私には対処しておきたい事項がありました。
『おい、水無瀬』
「なあに、バンビさん」
『いい加減出ていけ。仕事の、邪魔だ』
私が座る所長席の目の前。来客用のソファにごろりと横になっている馬鹿男は水無瀬片時。
一応捜査一課の刑事という肩書きを持っているらしいのですが、何をさせてもダメダメで、こうして私の事務所にふらふらやってきても怒られないという待遇を得ている男です。
本当に何の力もないのです。腕力も技術も推理力もない役立たずです。唯一――とある『技能』を持っていること以外は。
「でもバンビさん、今仕事してないよ?」
『お前がいるから仕事が来ないんだが!?』
「えー。それは言いがかりだよー」
奴は肘置きにクッションを置いて枕にしています。手元には花柄のカバーをつけた文庫本。机にはお菓子まであります。
こ、こいつ、くつろぎすぎでは? うちの事務所をサークルの部室か何かだと勘違いしてません?
ふつふつと湧いてくる怒りでパペットを震わせた後、私は諦めで肩を落としました。
こいつには言っても通じないということはわかっています。いつだってこいつとの会話は、暖簾に腕押しといった趣なのです。
私は一度ため息をつくと、水無瀬の持っている文庫本に目をやりました。
『ところで何を読んでいるんだ』
「んー。赤田十夜の新刊ー」
赤田十夜?
ちょっとだけ考えて思い至りました。
そういえば本屋で見たことがあります。新進気鋭の推理小説家。五年前のデビューから発行された小説は七冊。
本屋にも新刊のたびにコーナーができていたので、推理小説に興味がない私でも知っています。
へえ、水無瀬がそんな人の推理小説を――推理小説!?
『お前、推理小説が読める知能があったのか!?』
「バンビさんは僕を何だと思ってるの?」
『図体がでかいだけの幼稚園児』
「えーひどいー」
口ではそう言いますが、ショックを受けた様子はありません。本に向けられたその顔は、笑顔のまま固定されています。
水無瀬はいつだって腹が立つほどの笑顔です。いつもニコニコ笑っています。本当に腹が立ちます。
水無瀬はぱらりとページをめくります。比較的幼く見える顔が本に向けられています。
ああして黙っていれば様になるんですがねえ。
まさにイケメンの無駄遣い。イケメンの不法投棄です。水無瀬なんてイケメン税務署にイケメン脱税で怒られてしまえばいいんです。イケメン税務署って何?
入口の方からぎいっとドアが開く音がしたのはその時でした。
「すっ、すみませーん!」
ふぎゃあ!
な、なな何ですか、驚かさないでくださいよ。バクバクと跳ね回る心臓を押さえながら、低いパーテーションで区切られた向こう側に目をやります。
衣擦れの音。カバンの取っ手が軋む音。革靴が床に触れる音。
大人の男性が一人。服装はスーツ。聞いたことがない声だから、初見のお客様か、それとも。
私はいつもこの臆病者センサーのおかげでリスクを回避することができています。身の危険を察知すると、体にびびっと来るのです。
リスクマネジメントは重要ですからね。ああ、怖い怖い。
とにかく出迎えに行かないわけにはいかないでしょう。私はちらりと水無瀬を見ました。
ついてきてくれないかなあ。むしろ私の代わりに行ってくれないかなあ。
「どうしたの? お客さんだよ?」
くっ、こいつがそんな気の利いたことをしてくれるわけもなかったか。私はしぶしぶ立ち上がり、パーテーションの端から顔とパペットだけをのぞかせました。
『いらっしゃいませ』
ぱくぱくとくまさんのパペットを動かしながら、お客様に話しかけます。そわそわとしていた彼はこちらを見てちょっとびっくりした顔をした後、私の前にかがみこみました。
「ええと、誰か大人の人はいないかな、お嬢ちゃん」
イラッとして口がへの字型になってしまいます。
私は目の前にある彼の顔に、パペットでがぶがぶと噛みつきました。
「うわっ、な、何!?」
彼は立ち上がって噛みつきから逃れました。追撃する方法がなくて悔しく思いながら、私はパーテーションから全身を出します。
『私がこの探偵事務所の所長だ』
「え、でも君みたいな子供が……」
男性はこちらを指さしながら混乱しているようでした。こら。人を指さすものじゃありません。私でなければひどい目にあっていたかもしれませんよ。例えば師匠とか。
私はパペットをしていない側の手の指を二本立てました。
『私は二十二歳だ』
「えっ」
『必要なら身分証明書でも見るか?』
私が取り出した運転免許証を受け取り、それと私を交互に見比べます。
まあ、信じられない気持ちはわかります。人にはよく『小学生、よくて中学生』と言われる見た目なので。ですが、自覚があるのと、言われて気分を害さないかは別の話というものです。
彼は私に免許証を返してくると、自分の胸元から何かを取り出そうとしました。
「あの、失礼しました。自分はこういうもので――」
『刑事だろう。分かっている』
「え」
間抜けな声をあげて、彼は固まりました。私は彼のスーツの襟をパペットで示してみせます。
『捜査一課の赤バッジをつけているのだから丸わかりだろう。私に見覚えがないということはさては新入りだな?』
彼は目をパチパチと瞬かせています。なんだか声も間抜けなら顔も間抜けですね。信楽焼の狸みたいです。いえ、狸よりはずっとひょろっとしていますが。
私は左手の親指でパーテーションの向こう側を指しました。
『あいつを持って帰ってくれ。迷惑している』
邪魔です。うざいです。ああして悠々と居座っている水無瀬がいる限り、商売あがったりなのです。
「それがそのぉ……」
狸さん(仮)は目を泳がせます。よく見たら目の下にクマがありますね。苦労人なのでしょうか可哀想に。
「その……水無瀬さんを一番うまく扱えるのはあなただと聞いていまして……」
ホ、ホゲーッ!
同情なんてしている場合じゃありませんでした! 誰が誰をうまく扱えるですって!?
あの人の心がわからない類の人でなしと、うまくやっていける人間がこの世界にいるはずがありません。
もしいるとしても、それはそれでその方も人でなしというものでしょう。奇人変人というレベルではないのですあの男は!
嫌々ながら私は口の前にパペットを持ってきました。
『つまり?』
「あなたと協力して水無瀬さんの舵を取ってほしいと……」
はい、来た! いつものじゃないですか! 担当がこの狸さんに変わっても、警察の意向は変わらないってことですね。クソォ!
『断る』
「え」
『断る。帰れ』
「ちょっ」
『かーえーれー!』
私は狸さんに突進して、ぐいぐいとドアの向こうに押し出そうとします。くっ、重い! 成人男性ってどうしてこんなに重いんですか!
左手とパペットを全身で押し付けている私を困り果てた顔で狸さんは見下ろし、ごほんと咳をしました。
「謝礼が出ます」
私は動きを止めました。
「今月の家賃と食費が経費で出るそうです」
家賃と、食費。
具体的な報酬内容に私は思考を巡らせ始めます。
現段階の今月の依頼はたったの一件。先月からの貯蓄もほぼないに等しい。うぐぐ。これ以上ない好条件です。私は狸さんのスーツにパペットで噛みつきながら考え続け、顔を伏せたまま結論を口にしました。
『名前』
「え?」
『お前の名前は?』
狸さんの顔を見上げてパペットを動かします。彼はちょっと間抜けな顔で驚いた後、素直に名乗りました。
「
『やっぱり狸じゃないか』
「え?」
いけないいけない。つい、心の声が。
私は狸さんに背を向けて、パーテーションの向こう側にいる馬鹿男を睨み付けました。
『入れ。事件の内容を聞こう』
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